中国での植樹、最初の100万本が1億本に
――中国では今、植樹運動が加速しているそうですね。
岡田: どんどん植えている。私どもが木を植えだしたのは、苗木を作ることが産業になるからでした。きっかけは私どもが作り、100万本植えましたが、あの八達嶺の森は中国政府が植えたと思います。中国は大変感謝してくれて、私を北京市の名誉市民にしてくれました。
――最初の100万本が1億本につながったのですね。かたや日本では木を切らなくてはいけないのにほったらかしの山が多い。岡田さんは日本に「鎮守の森」を増やしておられますね。
岡田: 岡田屋の時代に、三重県外に初めて出店したのが愛知県の岡崎市でした。初の県外出店なので、岡崎に何か貢献したいと思い、岡崎城近くの川べりにサクラを700本くらい植えました。来年でちょうど50年になります。とても大きな木になって見事です。
今は国土交通省が、一級河川に木を植えることを禁止しています。そのため隅田川は実に殺風景です。あの時の岡崎の店はもう無くなっていますが、昔からのテナントさんたちと、もう一度サクラを植えようということになりました。
それで市に相談したら岡崎市制100年、徳川家康生誕400年になるから、また一緒になってサクラを植えましょうと。ところが、川の近くに植えるのはダメで、申請が進まないようです。今度、市と一緒に国土交通省へ交渉しに行こうと話をしています。
――日本の川はコンクリートの堤防だけでは殺風景です。並木があれば素晴らしいですね。
岡田: 昔は河川敷で桜が咲いている風景が、日本の春そのものでした。それが今では全然植えさせてくれないのです。「鎮守の森」の考えはここから始まりました。ちょうど宮脇先生が鎮守の森の重要性を仰っていて、鎮守の森をショッピングセンターに作ろうと思いました。ただ、先生に言わせるとサクラは山桜が本物。ソメイヨシノはニセモノだと。
中国で、ミャンマーで、自らも植樹
――ソメイヨシノはクローンですからね。イオングループとしては、いつごろから植樹が盛んになったのでしょうか。
岡田: 植樹活動のひとつの節目になったのは阪神・淡路大震災です。それまでは各店で近所の方に声をかけ300人くらいでやっていました。しかし震災後、日本でのボランティア人口が10倍になったと言われた通り、3000人くらいはすぐに集まるようになりました。
――NPOの機運が高まったのも、そのころからですね。
岡田: 環境財団としての活動は、国内では知床が最初でした。サクラを植えることで有名になり、さまざまな自治体や海外からも要請をいただくようになりました。一番遠い所はケニアで、日本人がこれだけいっぺんに来てくれたのは初めてだと歓迎してくれました。
環境活動家のワンガリ・マータイさんがとても興味をもってくれ、日本に来た時に秋田県にご一緒したことがあります。三重県体育協会の副総長をやっていた30代のころ、秋田で国体があり、昔の国鉄が防風林としてマツを植えていました。そして再び秋田に国体が来た時に見に行ったら、全部マツが枯れていました。
――マツ枯れ病ですね。
岡田: そうです。韓国や中国から亜硫酸ガスが流れてきて、弱ったところに松くい虫(マツノザイセンチュウ)が付いていっきに枯れてしまったのです。秋田はお金をかけて伐採して管理していたが追いつかない。それでJRと一緒になって秋田の海岸にマツを植えました。
――イオンとして、これまで木は何本くらい植えられましたか。
岡田: 幕張にショップセンターを建てる時に1000万本の記念植樹をしました。今年は3月にベトナムに行きます。
――ご自身で木を植えに行くのですか。
岡田: そうです。今年、海外はマレーシア、中国の蘇州、ミャンマーに行きます。ミャンマーは非常に協力的で熱心ですよ。
――1000万本の植樹は他に例がないように思います。どうしてそこまで植林にご熱心なのでしょうか。
岡田: 21世紀は環境、水と緑の時代。それで植樹が大事だと考えたからです。
――それはイオングループのためにも、ということもありますか。
岡田: 例えば、北京市が名誉市民にしてくれるということは、「その地域でイオンを良く理解してもらえた」ということです。カンボジアでは、植樹のほかに150校の小学校を作り、カンボジア政府から名誉市民として勲章をいただいたこともあります。
インドネシアではマングローブを3年間植え続け、去年終えました。日本から1200人行って大変驚かれました。これらすべてがイオンのためになっています。どこの国も出店する時に非常に協力的にやっていただいています。