泥んこシルクロード:希代準郎「ショート・ショート」

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(8)

遠くうっすらと稜線を残して山々が連なる。それを背に草原を駆け抜ける馬の群れ。草はまばらで土煙があがる。ド、ド、ドと地響きを立てて疾走している数は二十頭を超える。一人取り残された卓也には、風を切って走る心地よさよりも、落馬の怖さの方が勝り、馬の背中しか目に入らない。
「卓也、ダメよ。もっと手綱を張って。しっかりドンと座るの。背中を曲げないでまっすぐに」
並走しながら理沙が大声で叫んでくるが、どうしたらいいかわからない。馬は言うことを聞かずに勝手にゆっくり歩き回ったあげく、ついに止まって草を食べ始めた。
「この白馬、怪我でもしたことあるのかしら。走り方に癖があるわね」大地を踏んで馬の頸を軽くたたきながら、理沙が卓也を馬から下ろす。その時、ポツポツと雨が落ちてきた。
日本からツアーでやってきた二十人ほどの中で、乗馬については卓也が一番へただった。大半は大学生と社会人で体力があるうえに、意欲が違った。
卓也が「シルクロード疾風ツアー」のポスターを目にしたのは、若葉の季節のころだ。母に勧められて志望大学のオープン・キャンパスを訪れた。緑の蔦に覆われたレンガ色の教会、古めかしい校舎。どれもが嘘っぽかった。霞が関の官僚である父は、「日本には大学はふたつしかない。東大法学部とその他だ」とうそぶき、小さいころから卓也に家庭教師をつけて猛勉強させていた。その甲斐あって優秀な成績を収めていたが、卓也は私立大学の自由な雰囲気にあこがれていた。ただ、この大学には心に響く物がなかった。
その時、食堂の掲示板に、強い風を受けてはがれそうになっている痛々しいポスターを見つけた。中国のモンゴル自治区でかつてシルクロードだった草原を馬で旅しようというNPOのツアー企画だった。
「モンゴル大草原を馬で駆け抜ける」という大きな文字が飛び込んできた。それに続く「馬での旅はつらい。しかし、雨や嵐に耐え厳しい自然を乗り越えていく時、君は勇者となり、生きる勇気と自信を手にすることができる」。ポスターの誘いが胸にしみた。
卓也は高校の友人、康孝を失ったばかりだった。飛びぬけて数学のできる生徒だったが、気が弱くイジメにあっていた。表面は優等生だが、徒党を組み裏に回って同級生からお金をせびっていたワルの恫喝に耐えきれず、ある日、電車に飛び込んだのだ。「いやになっちゃうよ」。女の子のように長い睫毛を伏せてそうこぼしていた康孝のイジメを担任に報告する勇気もなく、見て見ぬふりに終始した自分に絶望を感じた。
案の定、ツアーは両親の猛反対にあった。「受験勉強の追い込みの時期なのに」と母は半狂乱になり、父は「東大が無理だから逃げるのか」と怒った。
普段は無口な卓也だが、この時ばかりは抵抗して親を驚かせた。自分で貯めたお金で行くとまで言われては、両親も許すしかなかった。
天津までの船やバスの中で卓也は孤独だった。仲間とはしゃぐ大学生が疎ましくもあった。皆が踊ったり歌ったりしている時も、ひとり、ゲルのなかで本を読んでいた。そんな時、何かと声をかけてくれたのが、NPOのベテラン日本人スタッフ、理沙だった。
「NPOの代表は中国人の劉浩宇というんだけど、彼が馬頭琴を聞かせてくれるから来ない?」ある晩、理沙が小声でささやいた。遊牧民5-6人が狭いゲルの中であぐらをかいていた。馬頭琴は棹の先端部分が馬の形に彫ってあり、弦の本数が二本の擦弦楽器である。馬の尻尾の毛を束ねて弦を張り、それをやはり馬の毛で張った弓で弾く。競馬をたたえる縁起のよい曲が始まるらしい。
「みなさんの健康を祈って」
劉はそう言うと力強く弾き始めた。小さな楽器だがバイオリンのようによく響く。華やかに見えて哀切なメロディーだった。昼間、乗馬の指導をしている時の劉は明るくて精悍そのもの、遊牧民の仲に混じっても違和感がない。今、眼の前で演奏に没頭している劉はむしろ繊細で憂いに満ちている。
「理紗、聞いていい?劉が好きなの?」
「君には理解できないだろうけど、人を見る基準は好きと嫌いだけじゃないのよ。応援したいというのもあるの」
そう言って、理紗は笑った。
「劉は東大に留学していたの。エンジニアを目指してね。優秀な学生だったけど家が貧しくて退学せざるを得なかった。夢だった日本企業にも就職できなかったわ。そんな時、お母さんが来日して、こう言ったそうよ。いつか車が買いたいねって。劉は泣いた。悔しくて。そしたら、お母さんは励ましてくれたって。泣くんじゃない、おまえには大きな心があるじゃないかと。それで劉はNPOを立ち上げたんだって」
馬に乗るのは簡単ではない。馬は人を見る。思えば、卓也の場合、こげ茶の「背高」との出会いから最悪だった。背にまたがろうとしても乗せてくれないのだ。最後には後ろ足2本で立ち上がり、ヒ、ヒーンいななく始末だ。完全になめられていた。
白馬に変わったのは、この日の朝からだった。劉から集合の声がかかり全員が集まった。雨が段々ひどくなってきた。
「みんな、よく聞いて。こんな雨の日は岩や川を越えて走るのは危険きわまりない。日本だったらすぐ中止だろう。でも、僕は続けたい。豊かな日本に育った君たちは冒険心や自主性に欠けると批判される。だけど、本当にそうだろうか」
劉の目には力があった。雨に打たれながら日本の若者たちは真剣に耳を傾けている。卓也も身体の中に眠っていた何かが動き出そうとしているのを感じた。
「日本はアジアで評判が悪いけど、明治時代には立派な先人がいたじゃないか。僕が学んだ日本の大学にもすばらしい先生がいた。みんな、自分に甘えることなく、悠久の大地とそこに生きる人々を知ることで、自分を超えることに今から挑戦してみないか」
劉の話が終わるのを待って遊牧民が、ちょっと遅れて日本の若者がオーッと一斉に声をあげ、馬の尻に鞭を当てた。それに煽られて皆が駆け出した。卓也も白馬の手綱を緩めた。その瞬間、馬は発射された弾丸のようにすごいスピードで走りだした。白馬もやる気になったようだ。周りの風景が2倍速で後ろに飛んでいく。雨滴が顔にぶつかり,痛い。ウオーッ、卓也は腹の底から吠えた。父と母の心配そうな顔が目の前に現れたが、あっという間に後ろへ飛んでいった。
衣服がびしょびしょになったが、不思議に寒さは感じない。シルクロードは完全な泥んこ道になってきた。お尻と太ももの内側がこすれて痛い。「それがなんだ。それを我慢し越えていけ」。どこからか康孝の声が叱咤激励する。馬の身体が自分に張りついたような気がした。馬のリズムが完全に自分と一致したのだ。右へ左へ、馬を自由にあやつることができた。そうか、これが疾走か。心の底から笑いがこみあげてきた。気がつくと群れの先頭を切っていた。劉と理沙が近づいて笑顔を向けてきた。
馬頭琴を聞いた夜、理紗がこう打ち明けたのを思い出した。「私、昔、自殺未遂をしたのよ。弱い自分にサヨナラしたくてツアーに参加したのが最初。今は草原のど真ん中でウンコをするのも平気。もちろん、夜だけどね、ウフフ」

(完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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キーワード: #雑誌オルタナ73号

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