アフガンの「黒い正方形」(希代 準郎)

 アクバルの家の内部は意外にも整頓されていた。あちこちに埃をかぶったイーゼルが置かれ壁には絵が並んでいる。一枚の異様な絵が目に留まった。
「あの絵のおかげで警察に逮捕されたんだよ、私は」白地に浮かぶ黒い四角形の絵。
「政府批判の危険な香りが漂っているというのが理由だった」
 初めは白い正方形だった。アラーの神への奉仕と、信徒同士の相互扶助を尊重するイスラム教の理想への思いを込めた。そこへ希望、愛、平和といろんな色を描き足していくうちに、失望と不穏なエネルギーに満ちた闇の色になってしまったのだという。
「ロシア革命の直前に描かれ、現代のイコンと称されたマレーヴィッチの『白地の黒い正方形』は、すべてのフォルム、色彩の否定だった。だからこそ、権力の弾圧を受けた。しかし、私の黒はまったく違う。すべてを包含した黒なんだ」
 ひょっとすると寛人はアクバルから黒い正方形の話を聞き、それを見るためにアフガンにやってきたのではないだろうか。
「その通りだ。寛人は長い間絵の前にたたずんでいたよ。やがて大粒の涙を流し、豊饒だ、豊饒だと何度もつぶやいていた」
 黒の中の豊饒とは?寛人は何を見たのか。
「絵の中に夢も希望も残っていると語っていた。黒い絵が海に見えた。群青の海だ。そこに無数の遺体と母親の笑顔があった。そして、叫んだ。故郷は死なない、必ず再生すると。血を吐くような叫びだった」
 いい出会いだったわけだ。
「ああ、ところが、寛人には尾行がついていたんだ」
「尾行?警察か」
「いや、反政府勢力の連中だ。彼らは私がアフガンに帰ってきた時、彼らのシンボルとして黒い四角の紋章を胸につけたいと要求してきた。無論、断ったよ。私は画家だ。政府でも反政府でもない。利用されるのはまっぴらだった」
 反政府勢力といっても地方の軍閥だ。寛人をいい金づるだと思ったのだろう。そのまま拉致した。
「身代金は日本円で7千万円。アクバル、あんたが日本で難民仲間に呼びかけて集め、被災地へ寄付した額と同じだ。それを取り戻すために寛人を売ったわけじゃないだろうな」
「変な勘ぐりはやめてくれ。反政府勢力の連中が勝手に動いたのだ。難民に認定してくれなかった日本政府から寄付金を取り戻してやると言ってな」

 一週間後、携帯が鳴った。アクバルからだった。今夜、人質と身代金の同時交換が行われることになった。場所はバーミヤン大仏の裏手。身代金は日本政府が支払う。軍人や警察は信用できないと、犯人側はアクバルをその運搬人に指名してきた。
 広い土漠の夕闇に夕陽を浴びた三つの影が立っていた。寛人と反政府勢力の司令官、それと身代金を入れた黒い袋を無造作に担いだアクバルだ。
 パン、パン、パン。突然、銃声がした。撃たれたのは司令官だった。止めに入った寛人が獣のような唸り声をあげて泣いている。「この金はアフガンの未来のために使う」。アクバルがそう叫んだ。暗い空と暮れなずむヒンズークシ山脈の峰々の連なりが美しかった。
(完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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