飛騨高山の価値創造千年物語~江戸時代編~

何を隠そう長近は、一度は織田信長を暗殺から救ったかと思うと、その後は秀吉方につき、果ては徳川家康側の東軍として、関ケ原の合戦で武功を立てるなどした時代の趨勢を読む名将です。飛騨の地を納めていた三木氏を討伐しこの地を治めた長近は、一人しか子がいなかったにも関わらず決して側室を取らず一生一人の妻を愛し続けた愛情の深さや、討伐した三木氏の一族を許した懐の深さ、自身の死後に部下たちに後を追わぬよう配慮する臣下への気遣いなど、非常に人間的な魅力にも富んでいました。

さて、金森長近は戦乱の世が終わり、平和な時代には商業と文化が重要になるという長期的なビジョンをもっていました。犬山近くの大野城にいた際の町並みに学び、高山を現在に続く京風の街に整備しました。さらには商業の基盤を整え、千利休などの茶の湯文化も一族の宗和時代に花開いていきます。これらのビジョンを実現するに至ったのは、長近が武将としての力のみならず、商売人としても秀でていたためです。長近自身が美濃や大阪に材木流通のための拠点と、材木の扱いに関するノウハウを持っていたということです。

こうして高山の城下町は商人の町として発展し、やがて大名貸しをも行うだけの豪商が多く生まれ、現在の高山の象徴とも言える古い町並みも形成されていきました。無論これら古い町並みの建築でも飛騨の匠が活躍しました。これらの家々を形作った匠は、信頼のおける顔なじみだったといいます。そして、匠たちのプライドを尊重して、仕事を任せることで、いいものを作ってくれたと言います。

このように、今の高山があるのは、金森長近様のお陰なのです。次に高山に行かれる方は、ぜひとも高山城跡のある城山公園の中央で馬にまたがる長近公の像を参ってみてください。文武両道で優しい大人に育つというご利益があるかもしれません。そして、大河ドラマが実現した際には、周りの人に自慢していただければ幸甚です。

匠の技が結実した高山祭屋台

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中畑 陽一(オルタナ総研フェロー)

静岡県立大学国際関係学部在学時、イギリス留学で地域性・日常性の重要性に気づき、卒業後地元の飛騨高山でタウン誌編集や地域活性化活動等に従事。その後、デジタルハリウッド大学院に通う傍らNPO法人BeGood Cafeやgreenz.jpなどの活動に関わり、資本主義経済の課題を認識。上場企業向け情報開示支援専門の宝印刷株式会社でIR及びCSRディレクターを務め関東・東海地方中心に約70の企業の情報開示支援を行う。その後、中京地区での企業の価値創造の記録としての社史編集業務を経て、現在は太平洋工業株式会社経営企画部にてサステナビリティ経営を推進。中部SDGs推進センター・シニアプロデューサー。

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