[CSR]岡田卓也氏はなぜ木を植え続けるのか――イオン名誉会長と2時間独占インタビュー

イオン環境財団理事長であり、名誉会長相談役の岡田卓也氏

イオン環境財団理事長でイオン名誉会長相談役の岡田卓也氏は88歳の高齢ながら、今も年に数回は海外に出かける。そのミッションは「植樹」だ。なぜ現役を引退した今も、木を植え続けるのだろうか。(オルタナ編集長・森 摂、編集委員・高馬 卓史)

 

社会貢献のお手本は米ゼネラル・ミルズ社

――岡田さんは1990年にイオン環境財団を設立されました。日本企業の環境活動は1992年のリオ・サミットが原点です。それより2年も前とは、ずいぶん早い時期から環境問題に関心を持たれていたのですね。その背景は何だったのですか。

岡田: (イオンの前身の)ジャスコとして21世紀の展望を考え始めたのは「ベルリンの壁」が壊れたころです。20世紀最大の問題だった東西冷戦が終わった89年、21世紀の課題は「南北問題」になると予見し、これからのキーワードは「環境」になると考えたのです。

企業にとって、社会貢献活動が非常に大事だと教えてくれたのは、米食品大手のゼネラル・ミルズ社でした。買収したタルボット社の親会社(当時)で、本社がミネソタ州ミネアポリスにあります。ミネアポリスは米国の中でも特に社会貢献活動が非常に盛んな土地です。

かの地では当期利益の3-5パーセントを社会貢献に充てるのは当たり前でした。それでイオンでも社会貢献活動の核として「イオン環境財団」を設立したのです。

その10年前の1980年、私は三重県四日市市に岡田文化財団を設立しました。ジャスコ誕生から10年経ち、私たちを育ててくれた郷里の三重県に貢献をしようと思ったからです。当時、三重県立美術館建設の機運が高まっており、民間としても支援しようと考えました。

――四日市は公害問題という不幸な歴史がありました。岡田さんはどう見ておられましたか。

岡田: 今は北京のスモッグがひどいですが、当時の四日市の空はどんよりと曇り、ぜんそくになった人が大勢いました。私の家はコンビナートから離れていましたが、それでも庭木に影響がありました。キンモクセイが咲かなくなったのです。一番弱いのは針葉樹で、スギは枯れてしまいました。ナンテンの実も付かなくなりました。

――公害の被害を見て、腹立たしい思いをされたりしましたか。

岡田: 世間ではそういうとらえ方をされていたかもしれませんが、当時は「産業第一」だという傾向がありました。公害という苦い経験はしたのですが、今もその傾向はあると思います。

私は、リオ・サミットにNGO代表として行きました。帰りに港町のサントスに寄りましたが、四日市の空の色と同じだと思いました。ブラジルにはたくさんのコンビナートがあって、川の水が何となく汚れている。これはいかんなと思いながら帰って来ました。当時首相だった竹下登さんもリオ・サミットを機会に環境庁へたくさん予算を付けたようでした。

四日市市にも環境問題研究所ができて、アジアの国々に研究提携したり、文化財団の資金を出したりしました。環境財団を作って最初に何かやろうとしても、まだ環境が取り上げられない時代です。環境庁に協力したり、植樹をしたりしましたが、中国で環境フォーラムをやったのが一番大きい仕事でした。

その中で、「樹でも植えますか」という提案がありました。どのくらいか聞いたら、先方は「3万本くらいやりましょう」と。生態学者の宮脇昭・横浜国立大学教授に北京大学の先生と相談してもらいました。中国にどんな木が生えているかと調べたところ、郊外には何も生えていませんでした。

そこで「苗を作って頂いたら1本55円で買います」と提案したら、いっぺんに70万本持ってきました。それで、日本からボランティアを募集して植えに行きました。元首相の海部俊樹さんや細川護煕さんと一緒に行ったりしましたが、そこで100万本植えました。

今ではその場所は「中日友好の森」という入場料を払わないと入れないような門つきの公園になってしまいました。去年そこに行ってみたのですが、もうあの辺には植えるところがない。急激な発展に伴い、全国的にどんどん木を植えているからです。山が全部自然に見えるくらいです。おそらく北京市なり中国政府が1億本くらい植えているのではないでしょうか。

kouma

高馬 卓史

1964年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。総合情報誌『選択』編集長を経て、独立。現在は、CSR、ソーシャルビジネス、コミュニティ・デザインなどをフォロー中。執筆記事一覧

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