「死」が極めて身近にあるミャンマーの人々とともに

ミャンマーの僻地・無医村「ミャウンミャ」から

安倍晋三元首相が亡くなった。それも日中、公衆の目の前で。このニュースは、戦後生まれの私には衝撃的だった。第2次世界大戦に負けた日本は戦後、民主化への道を歩んできた。迂闊にも、このようなことが日本で起こるなどと予想さえしていなかった。(NPO法人ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会「MFCG」代表理事・医師・気功師・名知仁子)

6月にMFCGの活動が10年になったのを機に、ミャンマーと日本を繋ぐ10周年記念イベントを開催

■「元首相撃たれる」のニュースに驚かないミャンマーの仲間

日本時間11:30分、日本に住む友人からニュースが送られてきた。私はすぐに、ミャンマー人の活動仲間に「大変だ!大変だ!大変だ!」と伝え、BBCニュースなどできる限りの速報を手に入れようとした。

しかし、彼らはニュースを耳にしても驚かない。最初は20歳〜25歳と若いため、ピンと来ないのかなと思った。しかし、彼らの背景を考えると、この反応はごく自然なものだと悟った。ミャンマーは2011年、世界に向けて門戸を開き民政移管を果たした。その時、彼らは9歳〜14歳で、子どもながらそれ以前の軍事政権による専制主義を経験している。

私は、2004年からミャンマーの人道医療支援に関わってきた。はじめての活動地は南西部のラッカイン州。ここは一番、人権が守られていないといわれている地域だった。

当時のラッカインでは政府が一部の民族に対し、教育の平等性、結婚の自由、行動の自由を制限していた。人々は自由に自分の意見を口に出すことなど許されなかったのだ。口にすれば、自分だけでなく家族の命も危険にさらされたから、人々は沈黙を守り通した。

その時のことは、今でも鮮明に思い出す。そして民政移管後、人々は徐々に自分の想いを口にするようになっていった。それも束の間で、2021年2月に再び軍事政権が権力を手中に収めた。

現在は元に戻ってしまったどころか、もっと酷くなったかもしれない。夜中に突然踏み込まれどこかに連れ去られてしまい、何処にいるのか、生きているのかもわからない人々も少なくない。

ここで一緒に活動を共にしている彼らは、生まれた時からそんな状況の中で生きてきた。安倍晋三氏の事件に驚かないのも当然だったのだ。彼らにとって死は身近にあり、絶えず息を殺して生きなければならなかった。私の方が、ぬるま湯に浸かっていたことを思い知らされ、愕然とした。

私はこれまで、彼らの何を見ていたのだろう。表面的なことだけを見て、わかったつもりになっていた自分自身を恥じた。しかしそれでもミャンマーにとどまり、この国の行く末を彼らと共に見ていきたい。それが今の私が言えることだ。

社会は一人では創れない。皆で創っていくものだ、と信じながら「誰一人も取り残すことのない地球」の実現を目指したい。

MFCGは2022年6月で活動10年を迎えました。10周年を記念したTシャツもご用意しています。詳しくはMFCGホームページ

Satoko Nachi

名知 仁子

名知仁子(なち・さとこ) 新潟県出身。1988年、獨協医科大学卒業。「国境なき医師団」でミャンマー・カレン族やロヒンギャ族に対する医療支援、外務省ODA団体「Japan Platform」ではイラク戦争で難民となったクルド人への難民緊急援助などを行う。2008年にMFCGの前身となる任意団体「ミャンマー クリニック菜園開設基金」を設立。15年ミャンマーに移住。

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