LGBTQ当事者の日本コカ人事部長が明かす葛藤と希望

記事のポイント


  1. 日本のコカ・コーラシステムの地域販社6社がLGBTQ施策を進めている
  2. 自身もLGBTQ当事者と明かす日本コカ・コーラのパトリック・ジョーダン人事本部長は、「ダイバーシティ(多様性)の尊重はビジネスの成長に欠かせない」と話す
  3. 自分の体験をオープンにすることで、安心感を持ってもらいたいという

日本のコカ・コーラシステムの地域販社6社がLGBTQ施策を進めている。同性パートナーに配慮した就業規則・福利厚生を整備したほか、同性婚・LGBT平等法の実現を求めるキャンペーンなどを展開してきた。自身もLGBTQ当事者と明かす日本コカ・コーラのパトリック・ジョーダン人事本部長は、「ダイバーシティ(多様性)の尊重はビジネスの成長に欠かせない」と力を込めた。(オルタナ副編集長=吉田広子)

自分の体験をオープンにすることで、安心感を与えたいと話すパトリック・ジョーダンさん(撮影・高橋慎一)

パトリック・ジョーダン氏(日本コカ・コーラ人事本部長)
アイルランド・ダブリン生まれ。ナショナル・オーストラリア銀行人事部門などを経て、2017年、コカ・コーラシステムに入社。2018年にシドニーを本拠地とするサウスパシフィックの人事担当バイスプレジデントに就任。2019年に現職に就くため日本に着任。ザ コカ・コーラカンパニーの日本・韓国オペレーティングユニットの人事本部長を務める。

■自分の経験を共有し、命を守りたい

――日本コカ・コーラは2022年7月、「LGBTQ+アライのためのハンドブック」を一般公開しました。発表会では、ジョーダンさんがLGBTQ当事者であることをカミングアウトされていました。葛藤もあったと思いますが、どのように決意を固められたのですか。

私はゲイです。まずストレートとゲイとは、人として全く違いがないということを理解していただきたいです。愛する対象が違うだけなのです。

私の子ども時代も、ほかの子と何ら変わらなかったと思います。私はアイルランドで生まれ、父は警察官、母は専業主婦という家庭で育ちました。両親や兄弟から愛情や教育、さまざまなサポートを受けてきました。

一方で、自分自身の根っこの部分で「何かが違う」とも感じていました。10代になって初めて、どういう人に魅力を感じるかということが、友人とは異なることに気付いたのです。しかし、それはタブーでした。ロールモデルもいなかったですし、私自身がそのことをよく理解できていませんでした。

自分が人とどう違うのか。はっきりと分からなかったのですが、何か「間違ったこと」だと感じていました。「間違っている」と思ったのは、特にカトリック教徒が多い地域でしたので、同性愛に関してネガティブだったからです。

10代に入ってから、状況が理解できるようになると、強い「恐怖」を感じるようになりました。16歳のときには自殺も考えたほどです。

なぜ恐れていたのか。それは自分の人生が「偽り」の人生になると考え始めたからです。例えば、結婚したり家族を持ったり、普通に暮らす「ふり」はできると思ったのですが、それは正しいことではありません。

本当にそういった生き方ができるのか、非常に恐怖を感じるようになりました。実際、高校生のころはガールフレンドがいました。「偽る」というよりも、社会がそれを「正しいこと」だと教えていたからです。

幸い、私は自殺しなかったのですが、そういった考えを持っていたことが恐ろしいです。10代の子たちが命を絶つようなことは決してあってはなりません。

私は一人の人間として、米コカ・コーラ社のリーダーとして、LGBTQの支援者として、自分の体験をオープンにすることで、少しでも安心感を与えたいのです。

真実を明かせない葛藤の32年間

――いつころから受け入れるようになったのでしょうか。

大人になっても、自分自身をありのままに受け入れることはできませんでした。20代でオーストラリアに移住したのですが、そこでもストレートのふりをし続けていました。すばらしい友人がたくさんいて、人生を楽しんでいました。ガールフレンドもいました。

しかし、25歳のとき、もうこれまでと同じように生きることはできないと考えました。それでもまだカミングアウトする準備はできていませんでした。素晴らしい友人たちでしたが、ゲイに関するジョークやネガティブなコメントがあったからです。

そこで、ガールフレンドをつくるのはもう止めようと決心しました。自分自身に嘘をつくこと、彼女に対して偽りの姿を見せることを止めようと決めたのです。

いまでもはっきりと覚えています。30歳の誕生日の朝、こう自分自身に言い聞かせました。「頭の片隅にあった考えを伝えるときが来た」と。ただ、どこから始めていいのか、全く見当がつきませんでした。

とても混乱していました。周りにゲイだという人はいませんでしたし、男性と感情的につながるという経験もありませんでした。まるで10代に戻って1から学び直すような感覚です。

ですので、もっと深く自分を理解することから始めました。それから2年後、32歳になって、自分のことを理解して少し安心感を持てるようになったと感じたタイミングで、家族や友人に打ち明けることを決めたのです。

両親にゲイだとカミングアウトすることは、だれにとっても一番大変なことだと思います。友人を失う覚悟もありました。ただし、これはやらざるを得ないことでした。自分が幸せでいるためには、絶対に必要なことだだったのです。

――長い年月をかけて決意を固めていかれたのですね。実際、カミングアウトした後の反応はいかがでしたか。

両親は非常に衝撃を受けていました。過去にガールフレンドもいましたし、言動にもゲイっぽさがなかったので、全く想像していなかったようです。

父はすぐに「サポートする」と言ってくれました。母もはじめ非常にショックを受けていましたが、1日か2日経って、サポートしてくれるようになりました。こんなに短い時間で受け入れてくれたことに、心から感謝しています。

私には「32年間」という準備期間がありました。しかし、両親は突然カミングアウトされたのです。すぐに受け入れてくれたというのは、本当に素晴らしいことでした。私の友人にもゲイの人たちがいるのですが、両親に受け入れてもらえず、あまり良い関係を築けていない人たちもいます。

友人は「もしかしたら」と思っていたようでした。私から話すのを待っていてくれたんですね。「打ち明けてくれて本当に良かった」と祝福してくれました。「これでやっとサポートができる」とも。

受け入れてもらえるということは、とても大切なことです。LGBTQ当事者をサポートする人たちを「ALLY(アライ)」と呼びますが、私の家族や友人は素晴らしいアライでいてくれています。

――ジョーダンさんにとって、どういったことが支えになりましたか。

ちょっとしたことですが、私の兄弟は、私と夫のことをポジティブに紹介してくれます。例えば、「私のゲイの兄です」という言い方はせずに、「私の兄と、夫の○○です」と紹介してくれます。

それからもう一つ、家族の強い愛を感じた出来事がありました。それはアイルランド政府が2015年5月に同性婚に関する国民投票をしたときのことです。両親は、実家のある通り沿いの家152軒を1軒1軒まわって、支援を呼び掛けました。

すべてのドアをノックして、「私の息子には同性のパートナーがいます。彼に対する愛情は、ほかの子と全く変わりありません。投票の際にそういう人たちのことを考えてほしい。そしてあなたの1票がどんな影響をおよぼすか、考えて投票してほしい」と伝えて回ったそうです。

最終的にアイルランド政府は、世界で初めて民主的に同性婚を認めた国になりました。

「自分らしく」いることで成果が上がる

――それはとても勇気づけられるエピソードですね。日本では、LGBTQ当事者の約半数が職場で生きづらさを抱えているという調査結果があります。ジョーダンさんが職場でカミングアウトした経緯を教えていただけますか。

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yoshida

吉田 広子(オルタナ副編集長)

大学卒業後、米国オレゴン大学に1年間留学(ジャーナリズム)。日本に帰国後の2007年10月、株式会社オルタナ入社。2011年~副編集長。執筆記事一覧

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キーワード: #ジェンダー/DE&I

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