医療現場のコミュニケーションバリアフリー化に塩野義が挑戦

記事のポイント


  1. 塩野義製薬がコミュニケーションバリアフリープロジェクト(CBF-PJ)を推進している
  2. 聴覚障害がある従業員が有志の形で集まり、勉強会を開催したのがきっかけだ
  3. 社内だけではなく、医療機関や医学生向けにも、啓発やツールの提供を行っている

大阪の薬の町、道修町に本社を置く創業145年(2023年現在)の塩野義製薬は「聴覚などに障害のある患者さまが医薬品情報にアクセスする際のコミュニケーションの壁(バリア)をなくす」をビジョンに掲げたコミュニケーションバリアフリープロジェクト(CBF-PJ)を推進している。このプロジェクトで活躍中の同社CSR推進部の野口万里子さん、塚本泰規さんに、プロジェクト立ち上げの経緯や現在の活動内容をうかがった。(聞き手=NPO法人インフォメーションギャップバスター理事長・伊藤芳浩 )

(左から、塚本泰規さん、野口万里子さん、伊藤芳浩)

▼塩野義製薬:コミュニケーションバリアフリープロジェクト

野口万里子(のぐち・まりこ)さん:先天性の重度難聴を持っており、口の動きを読む聴覚口話法という方法でコミュニケーションを取っている。オランダ生まれで、祖父が内科医だったことから医療に関心を持ち帰国後の2003年、同社に入社。海外経験を活かして海外関係の業務に従事。現在はCSR推進部に所属する傍ら、2015年度に有志会発足、2016年に全社プロジェクトとしてCBF-PJを発足させ、聞こえる人・聞こえないメンバーと共に活動を推進中。

塚本泰規(つかもと・やすのり)さん:聴者。医薬品を通じて人々の健康維持と促進に貢献できると考え、2010年にMR職(製薬会社の営業職)で塩野義製薬に入社。MR業務を通じて、患者さまの心身の健康への貢献には、医薬品以外の要素も多いことに気付き、社会や人への貢献度が高い仕事への関心が高まり、2020年に社内公募制度を活用してCSR推進部へ異動。2021年よりCBF-PJに参画している。

「最も良い薬を届けるため」に「薬の情報をきちんと届ける」

塩野義製薬は「常に人々の健康を守るために必要な最もよい薬を提供する」という企業活動の目的を「基本方針」の冒頭に掲げる。

「この『最も良い薬』というのは、聞こえる人だけでなく、聞こえない・聞こえにくい人にも医薬品の情報、そして医療従事者の説明がきちんと伝わるようにすることで、はじめて実現すると考えています。当社の基本方針をどのように具現化するかがCBF-PJの中心課題です」と塚本さんは話す。

プロジェクト発足のきっかけは、2015年10月、聴覚障害がある従業員が有志の形で集まり、聞こえの特性について勉強会を開催したことだった。そこでは、自分の聞こえ具合やコミュニケーション手段などを、それぞれが自由に発表し合う、いわば「当事者研究」のようなスタートだったという。

回を重ねるうちに、病院や薬局などの医療機関で聞こえない・聞こえにくい人が直面するコミュニケーションの困りごとをどう解決したらよいのかへと話題の焦点は絞られていった。「薬剤師の説明が分からず正しい服薬ができない」といった声は勉強会の中でも出ていたからだ。

医療従事者が聴覚障害についての正しい知識を持ち、その上で聴覚障害者への対応を正しく適切に行えるようにすれば、コミュニケーションの困りごとの解消につながる。勉強会の結論を受け、2016年に全社のプロジェクトとしてCBF-PJが発足した。

CBF-PJの草創期からのメンバーで、自身も先天性の重度聴覚障害を持つ野口さんは「自分と似た仲間と集い、発表し合うことで自分自身の特性に気づきました。さらに受け容れられる社会へと変化を起こす」と、当時を振り返る。

「CBF-PJが目指すのは『気づき』を提供することです。最初から聴覚障害者への対応を完璧にすることはハードルが高いです。聴覚障害や聞こえについての 『気づき』を受け取った人が、それをご自身で形にできるようにと考えています」(野口さん)

■「縦横の両方の繋がり」を駆使して全社的な活動へ

CBF-PJの取り組みはまず社内に「気づき」を提供することから始まった。イベントごとに社内サイトや社内向けプロジェクトメルマガでお知らせを行ったりして、社内へ広く啓発するようにした。プロジェクトメンバーが自らのメッセージと共に動画に出演するなどして、口コミでメンバーを増やすようにした。

その結果、自主的にメンバーに加わる賛同者の従業員が次々と現れ、次第に大きなプロジェクトになっていったという。

現在、CBF-PJからの社内プロジェクトメルマガ配信を受ける「ファン」は従業員1300人以上となり、職場内で転送するなどCBF-PJ普及の広報役を担っている。さらにファンの中でも特にCBF-PJへのコミットメントが高い従業員50人は自ら志願し「スペシャルサポーター」として、社内外へプロジェクトの波及を目指し、活動を始めた。

また、プロジェクトには、経営層からの強力な後押しもあり、定期的に経営陣が参加するCBFアドバイザー会を開催して、経営層からも活動への高いコミットメントを得ている。

「アイディアを持つメンバーだけの力だけではプロジェクトは上手くいきません。部門を超えた横と縦の繋がりの両方を駆使しないと、効果的に広がらないと考えています。トップダウンとボトムアップ活動の両方がうまく回っているのがCBF-PJの大きな特徴です」(野口さん)

塚本さんも「立ち上げの早い段階から部門横断的に展開したという意味では特異性のあるプロジェクトでしたね。特に経営層を巻き込み、賛同を得られたことが全社プロジェクトへと成長する後押しになりました」と続けた。

■「バリアの正しい理解」から「適切な配慮の提供」へ

では、実際に CBF-PJではどのような活動をしているのだろうか。「聴覚などに障害のある患者さまが医薬品情報にアクセスする際のコミュニケーションの壁(バリア)をなくす」というビジョンを具体化するため、2017年から、主に医療従事者へ向けて以下のようなセミナーを実施している。

1.バリア(聴覚障害)を正しく知ってもらうこと(啓発)
聴覚障害の特性や障害の程度や聞こえのタイプの違いなどにより、希望するコミュニケーション手段は異なってくることを伝えている。
例)耳の聞こえない・聞こえにくい人には「耳元で大きな声で話すのが良い」といった誤解等

2.バリアを知った上で適切な配慮をしてもらえるようにすること(研修)
聞こえない・聞こえにくい人が来院した際の接遇方法を医療従事者へ提案している。

より良い「コミュニケーションバリアフリー」のために

CBF-PJがまず着手したのが社内のコミュニケーションバリアフリーだ。例えば、社内で行われる講演会や会議が音声のみで進められる場合、聴覚障害を持つ従業員、聞こえる従業員双方にコミュニケーションのバリア(障壁)が存在することになってしまう。

まず、これを克服することから始まった。障害の有無に関係なく、誰もが主体的に社内会議に参加できる会議にするためのツールを模索していたところ、音声認識アプリ「UDトーク」にたどり着く。

これを使えば会話が「見える」ようになると、すぐにプロジェクト内で導入に向けた検証が始まった。また社内イベントでもUDトークを壁に投影することで、多くの従業員の目に触れる機会を作った。検証の結果、簡単な操作で「会話が見える」ことが分かり、社内のコミュニケーションバリアフリーの達成に適うものとして、2022年6月に正式導入が決まった。

各部署で活用を始めるにあたり、導入当初は問い合わせ対応、使用マニュアルの作成などをCBF-PJが担当。現在の運用はシステム専門の部門に移管され、全社レベルで使用できるようになっている。

塩野義製薬はが社内のコミュニケーションバリアフリー化にも取り組んできた

CBF-PJがコミュニケーションバリアフリーの取り組みを始めたことで、他部門にも良い波及効果があった。

「人事部門は障がいサポート相談窓口を開設しましたし、各部のプロジェクトメンバーが手作りで社内用語の手話単語集動画を社内向けに発信していた他、広報部門は医療機関で使う簡単な手話動画などを作成し、社外へ積極的に発信するようになりました。CBF-PJの紹介動画では当社の社長が手話での挨拶にチャレンジしています」(野口さん)

CBF-PJの紹介動画「コミュニケーションバリアフリープロジェクトって何?」(クリックするとyoutubeに移動します)

セミナーを実施した医療機関の医師らからも「明日からでも使えるスキル」「聴覚障害を持つ患者さんへの対応の意識を高めることができた」という声が届いているという。同社のこうした試みは「製薬会社がこのような取り組みをしているのは聞いたことがない」「この取り組みを応援したい」と医療関係者から大きな反響を呼んでいる。

「製薬会社は薬を売るだけではない、その先の患者さんにとって良い取り組みをしているんだね、というお声も多く、弊社の社会貢献活動や医療アクセスへの取り組みの姿勢を知っていただくきっかけになっています」と塚本さんは手応えを感じてきた。

■医学生にも「コミュニケーションバリアフリー」を啓発

CBF-PJが中心となって作成した補助ツールは同社のウェブサイト上でも公開されている。医療従事者向けの聴覚障害の説明冊子や、診察時に活用できる補助ツールだ。

しおりカード(クリックすると詳細ページに移動します)
障がい特性説明パンフレット(クリックすると詳細ページに移動します)

2022年6~8月には、未来の医療従事者に向けた啓発漫画の制作費をクラウドファンディングで調達。社会全体への課題の発信と啓発にもつなげている。

実は医学部や薬学部などでは、聴覚障害に関する教育がほとんど実施されていないという。それを知った野口さんらは、中長期的視点で医療機関でのコミュニケーションバリア解消を考えると、学生のうちからこれらの課題と対応方法を知るきっかけがあると良いのでは、と考えた。

「この課題をプロジェクトだけでなく、社会全体で解決していきたいという想いから、公共性の高いクラウドファンディングを活用したところ、多くの共感と賛同をいただき啓発漫画を発行することができました。3月27日時点で、64校73学部に、計6000冊以上を提供する予定で進めています。実際に漫画を読んだ学生さんからは『将来医療従事者になったときにとても役に立つ』『聴覚障がいのことをよく知ることができた』というコメントを多く頂戴しています」と野口さんは話す。

■絶えずチャレンジを続けていきたい

CBF-PJの今後の課題は啓発・活動をより前進させていくことだ。「医療従事者は患者さんのために日々、真摯に対応をしてくださっています。でも、聞こえない患者さんとの接し方を具体的に知らないと会話にバリアが生じてしまいます。ちょっとしたコミュニケーションのヒントを知っていれば、心のバリアフリーコミュニケーションができると考えています」と野口さんは話す。

一方で、医療従事者の中には「障害者のために対応してあげよう」という態度を取ったり「忙しい中で手間がかかるので聴覚障害の患者対応は面倒」と考えたりする人がまだいるのも、残念ながら事実だ。

「ヘルスケア産業においては『情報』は、患者さまがその後の治療を考え、自ら選択する意思決定に欠かせないものです。本来、情報は患者さまのためにあるもの。情報を伝える側が、出来る限り正しく伝え、患者さんの意思を把握する状態を作ることが重要だと考えています」(塚本さん)

聴覚障害者に対する医療従事者、そして社会全体の理解を広めていくためにも、「現状に満足することなく、常に新しいことにチャレンジし進化するプロジェクトでありたいと考えています」と野口さんも継続的な活動の必要性を訴える。

「LGBTQや発達障害と同様に、聴覚障害に関するキーワードを社会でよく目にするようにしたい。CBF-PJの活動を通して、聞こえない人とのコミュニケーションはどうすればいいのだろう?と気づきが広がる社会に変えていきたいです。バリアフリーの重要性は万国共通だと思うので、グローバルにこの活動を展開して 『コミュニケーションバリアフリー』な世界を実現していくのが夢です」

itou

伊藤 芳浩 (NPO法人インフォメーションギャップバスター)

特定非営利活動法人インフォメーションギャップバスター理事長。コミュニケーション・情報バリアフリー分野のエバンジェリストとして活躍中。聞こえる人と聞こえにくい人・聞こえない人をつなぐ電話リレーサービスの公共インフラ化に尽力。長年にわたる先進的な取り組みを評価され、第6回糸賀一雄記念未来賞を受賞。講演は大学、企業、市民団体など、100件以上の実績あり。著書は『マイノリティ・マーケティング――少数者が社会を変える』(ちくま新書)など。執筆記事一覧

執筆記事一覧
キーワード: #ビジネスと人権

お気に入り登録するにはログインが必要です

ログインすると「マイページ」機能がご利用できます。気になった記事を「お気に入り」登録できます。
Loading..