犬神の怨霊(希代 準郎)

作家
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◆「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(32)

 山奥深く、湿った熱を帯びた杉林がこんもりと茂る急な山道を月あかりに照らされながら犬の群れが山里に向かって駆け下っていた。舌を出し牙をむいた表情は何かに憑かれたかのようだ。その数、3000。興奮した犬同士のかみ合いが起こり、血だらけの死体がいくつも道端にころがった。

 先頭を飛ぶように走っているのは全身黒いビロードの毛に包まれた巨大な犬だった。野山を駆け回って鍛え上げた熊のような筋肉は汗にまみれながらはち切れんばかりに躍動している。
 捨吉は犬たちを車で追っていた。押し黙ってハンドルを握る角爺の隣で赤外線カメラを搭載したドローンを操縦しながらパソコン画面にくぎ付けになっていた。ちょうど先頭の犬が盆踊りの会場になだれ込んだところだった。踊り手たちが泣き叫びながら逃げ惑っている。金髪の女が一瞬、画面に映り込んだ。驚愕の目を見開いた女の喉を犬が一瞬でかみきり、胸の肉に牙を埋めた。
 「このまま都市部に入り込んだら大変なことになるぞ」角爺の声は震えていた。

 その夜、犬舎の犬たちが興奮し始めたのは盆踊りが始まり、リズミカルな太鼓の音が聞こえてからだった。

 ドドン、ドンドン、ドンドドン、ドドン、ドンドン、ドンドドン・・・

 いつもは夕方になると暑さでぐったりしている犬たちがこの夜に限って太鼓の音の奥にある何か不吉な声に耳を傾けるかのようにピッと耳を立て、満月を見上げていた。1頭や2頭ではない。何十頭、何百頭という犬たちが緊張し神経を研ぎ澄ましていた。飼育係の捨吉は黒い犬と目が合った。瞬間、犬がニヤリと笑ったような気がし、背筋が凍った。大震災で両親を亡くした捨吉は受験に失敗、ネットで東北でも山奥のこの施設の臨時職員に応募したのだ。

 捨吉は夜間の警備を担当している角爺に声をかけた。
 「犬の様子がおかしいんだ。太鼓の音で興奮している」
 もう80近い爺は元は猟師らしいが、犬の番が好きではない。
 「盆踊りにはリリーも行くと言っていたが、一緒に踊りたいわけじゃあるまい。暑くていらついているだけだろう」
 目立たぬようにしているが、500頭収容の犬舎が6棟、全部で3,000頭もいる。過密状態で、最近、犬同士の喧嘩が絶えない。殺処分ゼロを主張するNPOがここへやってきたのは5年ほど前のことである。
 「かわいい犬を殺すなんて許せません」
 代表のリリーは色白のドイツ人で、海のように澄んだ青い目を持っていた。まっすぐな鼻にはプライドが、引き結んだ唇には自信が宿っていた。殺処分ゼロを実現するのは容易ではない。犬を捨てないように飼い主を啓蒙したり、捨て犬を新たな飼い主に譲渡するには大変な手間ヒマがかかる。ところがリリーは、やってきて間もなく「わが県は全国に先駆けて殺処分ゼロを実現しました」と記者会見で発表した。何のことはない。県の保健所なんかに持ち込まれる捨て犬を全部引き取ってしまったのだ。角爺は犬を殺すのも嫌いだが、かと言って狭いところに閉じ込めて放置するのも嫌いだった。
 「リリーは魔法使いだね。誰もが夢に見ていることを簡単に実現してしまうから皆大喜びさ。殺処分ゼロと言われれば安心するんだ。しかし、実態は安い土地を買い占めて、そこへ犬を囲っているだけだ。殺処分ゼロだと?これは詐欺。よく言って偽善だ」
 譲渡できる数だけ引き受けて地道に譲渡活動をすればいいのになぜ、それほどあせるのか。
 「決まってるじゃないか金だよ、カネ。かわいそうな犬を助けられますと宣伝して、このNPOがいくら寄付を集めていると思う?」
 「さあ」
 「毎年5億円だよ。誇り高い犬神さまを怒らせると怨霊が怖いぞ」
 ワオーッ、ワンワン
 その時、一段と大きな犬の鳴き声が聞こえてきた。捨吉は角爺といっしょに外へ飛び出した。ウワー!角爺が大声を出した。犬たちが穴を掘っていたのだ。トンネルを作って犬舎の檻の外へ脱出しようというわけだ。
 「あっ、やっぱりあいつだ。ミナグロだ」
 角爺の視線を追う。率先して穴を掘っているのはあの大きな黒い犬だった。胸に月の輪のない真っ黒なツキノワグマに因んでミナグロと呼ばれている野犬だった。
 「マタギの爺さんが震災で死んでからずっと山で自活していたんだ。誇り高い犬だが、ちょっと前にヘマをして保健所に捕獲されたんだ」
 瞬く間にトンネルが掘られていく。他の犬舎でも穴掘りが始まった。これはまずい、警察に知らせなくちゃ。そういって角爺は携帯に飛びついた。捨吉は急いでドローンを飛ばした。犬たちは続々と外へ飛び出していく。先頭のミナグロを探すと、集団を引き連れ何キロも先を疾駆している。
 おい、車に乗れ。角爺に言われて軽自動車に飛び乗って犬の群れを追いかけた。

 盆踊り会場に降り立ってみると、血の海だった。リリーはボロ雑巾のようになって死んでいた。
 パソコン画面に戻ると、犬たちは山里で牛を屠り、豚を殺し、鶏をむさぼりながら山を下っていた。ドローンをさらに先に飛ばすと麓の都市部の入口で県警の機動隊が鉄条網を張り、横一列で銃を構えている姿が画面に映った。
 「角爺、このままでは機動隊と狂犬が正面からぶつかってしまいます」
 「銃器の前では動物は無力だ。可哀そうだが、犬は皆殺しだろうな」
 その時だった。地鳴りがして大地が激しく揺れ、轟音とともに山が崩れ始めた。機動隊の列があっと言う間もなく土砂に飲み込まれていく。
 「犬が騒いだのは地震を予知したからだったんだ」捨吉はつぶやいた。無数の犬の無気味なうなり声。そして通奏低音のように柔らかい肉球が地面を蹴る音。ミナグロを先頭に犬たちはビルが崩壊し、人々が逃げ惑う被災地の都市に向かって一直線に走っていく。犬神の怨霊の暗くきしむような奇怪な叫びが聞こえてくる。一体、どうなるのか。捨吉は頭を抱えた。(完)

作家
日常に潜む闇と、そこに開ける不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな 担い手。この短編小説の連載では特にNPOという新たな動きに注目、そこに関わる群像を通して、生きる意味、生と死を考える。

2019年7月29日(月)9:53

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