「愛」の流した一筋の涙

作家
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「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(24)

 舞台の照明が突然明るくなった。
 「さあて、皆さま。本日のスペシャルマッチがいよいよ始まりまーす」
 派手な衣装に身を包んだ司会の男が大音量のマイクで絶叫すると、隣に座っている愛がキャー、ワオーとかわいらしい歓声をあげた。
 「アームレスリングの神様、ジョン・ブルザンクにニッポン最強の金井が挑みまーす」。またもマイクががなりたてた。赤コーナーの金井は相撲取りのようにがっちりした体型をしていた。青コーナーのブルザンクは米国のユタ州出身で素朴な農民という印象で、ドイルのゴールキーパーだったカーンにちょっと似ている。
 「金井は10年間ずっとブルザンクに負け続けているのよ」。愛は大のアーム・ファンらしい。
 「ドント・ムーブ」に続き「ゴー」という審判の合図。競技台で試合が始まった。「金井、本気でやったれや」。「どっちが神様か教えてやれ」。
 ブルザンクを応援する客はひとりもいない。金井とブルザンクのふたりは、右ひじをエルボーパットの上に置いて右手で組み合っている。金井の顔は真っ赤だ。優勢と見えたブルザンクを金井が押し返す。ブルザンクの手の甲がタッチパッドにつきそうになった。オーッという大歓声。しかし、そこまでだった。ブルザンクが底力で盛り返し逆転した。会場から大きなため息が漏れた。
 しかし、ここで意外なことが起こった。ブルザンクが観客から挑戦を受けようと言い出したのだ。三人の屈強な男が次々に勝負を挑んだ。しかし、軽くあしらわれた。しらけムードが広がり帰り支度をする人もいた。その時だった。突然、愛が手を挙げたのだ。腕をまくって力こぶを見せるかわいい女の子の登場にヤンヤヤンヤの喝さい。誰も勝負を期待しているわけではない。お遊びなのだ。ブルザンクもくつろいだ表情でニコニコしている。
 しかし、リラックスしていたブルザンクの表情が愛と右手を組み合わせ瞬間一変した。まさか、と顔が引きつっている。「ゴー」のかけ声で、何と愛がブルザンクを押さえ込もうとしていた。ワーッと驚きの声があがる。もう少しで行けるかという刹那、愛の表情が曇りあっさりひっくり返された。私には愛がわざと力を抜いたように見えた。観客はブルザンクがわざと負けるようなふりをしてサービスしたのだと思ったに違いない。
 愛は、雑誌社に勤める私の取材先のPR担当だった。なんでも会社にはマラソン選手として入ったらしい。初めて会ったのは品川の本社工場で行われた社長の記者会見の時だ。地味な電機メーカーだが、時々、とんでもない新製品を開発して世間をあっと言わせるので、経済記者の私としても油断できない相手だった。こじんまりした会見場の受付に立っていたのが愛だった。小柄で大きな目、緊張しているのか、どこかぎこちない動作に興味を感じ、「新入社員?」と声をかけてみた。
 「安部愛さんです」。きれいなソプラノが返ってきた。
 「愛さん?」
 「ハイ、本名です。よろしくお願いします」
 自分を「さん」付けするなんて、冗談かなと思ったが、なんかかわいらしかった。社長会見が大したニュースもなく終わったあと、帰り際、彼女が近寄ってきた。半袖からのぞいている腕の太さに目をつけられたらしい。
 「腕相撲に関心ありませんか」

 というわけでアームの試合に出かけるはめになったわけである。愛のマラソンはなかなかのものらしく、時々、スポーツ新聞に記事が載るようになった。そんな彼女に晴れ舞台がやってきた。東京女子マラソンに出場することになったのだ。テレビに映る愛は髪をなびかせ、先頭グループに食らいついている。30キロを通過した時、本命のロシア人選手がスパートし、あわてた2位のケニア人と3位のエチオピア人が交錯し倒れた。すぐ後ろを走っていた愛もこのアクシデントに巻き込まれ転倒した。ケニア人とエチオピア人はすぐ立ち上がって走り出した。しかし、愛はなかなか起きあがれなかった。左足を強打したようで、レースを棄権した。
 それからしばらく愛は荒れ気味気味だった。後遺症でうまく歩けなくなってしまったからだ。左足を引きずっている。
 「大きな病院で診てもらったら」。そう勧めたが、痛くないから平気よ、と反発した。そう、今思えば確かに痛くはなかったのだろう。
 それがわかったのは、歌舞伎町を歩いていて遭遇したあの事件のせいだ。向こうから歩いてきたヤクザ風の男のグループのひとりの肩に、私の体が触れた。
 「おい、ぶつかっておいてあいさつがないちゅうのはどういうこっちゃ」
 相手は突然殴りかかってきた。その時、愛の鋭い声がした。
 「ちょっと、あんたたち、いきなり何なの」
 女性とは思えない強烈な右パンチが男に向けて放たれた。鼻の骨が折れ血しぶきが飛んだ。ギャー、そう叫んで男は倒れた。すさまじい破壊力だった。男の仲間が愛に襲いかかった。太い丸太がうなりを挙げて愛の右手に振り下ろされた。右手は吹き飛ばされ道路にころがった。私はうろたえた。重傷のはずの右手から血が一滴も流れていなかった。かわりに、精巧なバネや金属の束が目に飛び込んできた。
 「ウワッ」と真っ青になった男たちは一目散に逃げていった。愛が振り返った。その時、私は見た。大きな瞳から一筋、涙がスーッと頬を伝わったのを。
 間もなく、社長と愛が記者会見を開いているのをテレビで見た。AB―AI―3というのが彼女の登録番号だった。どこか寂し気な表情だ。「試験期間を経てわが社が開発した最新のロボットです。驚くべき進化を果たしました」という社長のセリフが耳に飛び込んで来た。なにが進化だ、怒りがこみあげてきてテレビのスイッチを切った。
 しばらくは何も手につかずぼんやり暮らした。愛のことは忘れたかった。しかし、記憶がフラシュバックでやってきた。浜離宮の散歩。チッタイタリアで食べたサーモンとコウナゴのピザ。みなとみらいの観覧車の中でのキス。何よりあの笑顔。そろそろ恋人として親に紹介しようかと思っていたところだった。「愛さん」が「AI―3」のことだとわかった今でもあの思い出だけは真実だと信じたかった。そして突然、思い出したのだ。あの一筋の涙を。あれは何だ。機械に組み込みこまれたしょっぱい塩水だったのか。いや違う。絶対違う。そんなはずはない。だとすれば、あれは涙だ。彼女は人間と同じ涙を流せるんだ。信じがたいことだが、ロボットはもはや人間と同じレベルまで進化したんだ。だったら――、私はあわてて駆けだした。
(完)

作家
日常に潜む闇と、そこに開ける不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな 担い手。この短編小説の連載では特にNPOという新たな動きに注目、そこに関わる群像を通して、生きる意味、生と死を考える。

2018年12月14日(金)9:00

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