<写真レポート>被災した町を歩く 東日本大震災

震災後、津波に飲まれた沿岸部を歩いた。

町は姿を消し、目に入るのはガレキと、かろうじて倒壊を免れたものの鉄骨だけを残し、無残な姿に変わり果てたビルだった。

潮の臭いが鼻を突く。干からびた魚が、道に落ちているのを見つけた。海水が町を飲み込んだ生々しい爪あとだ。

九死に一生を得た人々は、それぞれが、津波が押し寄せた状況を熱心に語ってくれる。

「一気に口元まで水が来た。そのまま流されそうになり、必死の思いで鉄骨につかまって耐えしのいだ」

「観念して両手を合わせた。次の瞬間、年老いたお袋が背中にしがみついてきた。波に飲まれた後は覚えていない。気がついたら波が引き、膝まで水に浸かった自分がいた」

想像を絶するとは、まさにこのことだ。これが夢物語であったら、どんなによいだろう。だが、惨事は現実に起きてしまった。

エホバ神はかつて、箱舟で生き残ったノアに対し、今後大洪水は決して起こさないことを約束し、その証として空に虹をかけたという。

いまの被災地にも虹が必要だ。それは恐らく、「希望」という言葉だろう。(写真・文=オルタナ副編集長 形山 昌由)

避難所を訪れた村井嘉浩宮城県知事に声をかけられ、安心する被災民 山元町
避難所に導入された衛星電話で連絡を取る男性 南三陸町
連日の安否情報を確認する被災者 南三陸町
通路に仕切りを作っての避難所生活が続く 南三陸町
車は3階建てビルの屋上まで津波で運ばれた 女川町
被災後、燃料供給は途絶えた。車からガソリンを抜いた形跡が見られる。女川町
瓦礫の山となった町 南三陸町
瓦礫のなかに落ちていた写真。七五三だろうか。 南三陸町
瓦礫と格闘しながら自衛隊の救出作業が続く 南三陸町
海岸沿いに落ちていた日記帳。津波は人々の思い出も根こそぎ持ち去った。 南三陸町
流された瓦礫を呆然と見つめる女川町の町民。津波は海からはるか遠くまで道路を伝い駆け上がった。
津波に飲まれた常磐線の踏み切り、線路は跡形もない 山元町
津波に流され、出火で焼け焦げた自宅を見つめる男性。自宅近くにいた妻はまだ見つかっていない。 南三陸町
津波が川に沿って逆流、海から1キロ付近まで流されてきた家々。瓦礫の下は川だ。 女川町
水の力で曲がった鉄骨 女川町
水が押し寄せめちゃくちゃになった病院内の救急処置室 ここは海面から15メーターはある 女川町
大きく傾いたビル。被災地には完全に横転したビルもある 女川町
墓石が倒れ、その上に横転した車が見える 山元町
避難所でつかの間の笑顔を見せる被災者。一人暮らしの木村百合子さん(左端)は隣家の人が戸をこじ開け、津波が来る前に避難できた。東京で働く息子の得男さんとは、まだ連 絡が取れていない
18年ぶりの明るい月「スーパームーン」に照らさたれた倒壊した家々とそこに乗り上げた船 2011年3月19日午後10時48分撮影 塩釜市
右手の3階建てビルを乗り越えて横転した漁船 女川町
原発近くでは自衛隊の救援活動も難航 山元町
津波は浸水想定区域を越えて駆け上がった 南三陸町
ワカメスープの配給を受ける被災民。漁業復興の見通しはまったく立たず、地元産ワカメもしばらくは食べられない。 南三陸町
ボランティアによって次々と棺が作られていく 南三陸町の避難所で
ビルの屋上に見える家の屋根。残りはどこへ流されたのか。女川町
ぐにゃりと曲がった自転車 南三陸町
300体以上の遺体が収容された南三陸町。折れ曲がった看板がむなしく残る
高さ15メートルはある丘に停めてあった車も横倒しになっていた。女川町
限られた電気しかない避難所生活。携帯電話の充電に長い列を作る人々 南三陸町
防潮堤は無残にも崩れ、地盤沈下は75cmに及ぶ。 陸地はいまも浸水する。 南三陸町
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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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