東南アジア・スマトラ島の災害現場になぜゾウが現れたのか

記事のポイント


  1. 11月に発生したスマトラ島の災害現場に4頭のスマトラゾウが現れた
  2. スマトラゾウは、「絶滅危惧IA種」に指定されている
  3. ゾウの姿は、気候危機・開発・文化・保全の境界が曖昧な今の時代を象徴している

2025年11月に発生した東南アジアの大洪水のさなか、インドネシアのスマトラ島では、4頭のスマトラゾウが災害現場に現れた。スマトラゾウは、ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高い「絶滅危惧IA種」に指定されている。災害現場になぜスマトラゾウが現れたのか。その歴史的背景や地理的制約について、日本地域地理研究所の瀧波一誠代表理事の視点を紹介する。(オルタナ編集部)

スマトラゾウ

■災害現場に現れた巨体、スマトラ島で何が起きているのか

インドネシア・スマトラ島北部で発生した大規模な洪水と土砂災害により、死者は960人を超え、数万世帯が孤立しました。長期間にわたる異常豪雨が、山地から大量の土砂と流木を押し流し、家屋・農地・道路を次々と破壊したのです。

特に深刻な被害を受けたのが、インドネシア・アチェ州ピディエ・ジャヤ県でした。
この地域は急峻な山地と脆弱な火山性の土壌が特徴で、近年の農地開発や森林伐採の影響で地盤が不安定になっていたとされています。道路は倒木と岩塊によって完全に遮断され、重機を投入すれば二次崩壊を招く危険性が高い状況でした。

そこで動員されたのが、州の象保全センターで管理されている訓練済みのスマトラゾウ4頭(アブ、ミド、アジス、ノニ)でした。

災害現場にゾウが現れる光景は一見すると異例ですが、地形条件と作業環境を考えれば、この選択は極めて合理的なものだったと言えます。

■スマトラゾウが災害対応に投入された背景は

スマトラ島は赤道直下に位置し、年間を通じて降水量が多い熱帯雨林(Af)気候、及び熱帯モンスーン(Am)気候に属します。特に北部の山岳地帯では、雨季に数週間単位で豪雨が続くことも珍しくありません。

インドネシアのスマトラ島

また、この島の地形は、「急峻な山地」「火山活動に由来する風化しやすい土壌」「谷沿いに集中する集落と農地」が特徴となっており、重機の使用が難しい地域です。

降雨が一定値を超えると泥濘(でいねい)化が起きるだけではなく、土砂災害のリスクが跳ね上がります。

さらに道路や橋梁などのインフラは極めて脆弱で、被害が拡大しやすい環境です。

近年は気候変動の影響により短期間で極端な豪雨が発生する傾向が強まり、従来の治水や防災対策では対応が難しくなっているのです。

こうした環境条件のもとで、スマトラゾウは独特の機能性を発揮しています。

ゾウは、

  • 足裏が広く、接地圧が低いため泥濘地でも沈みにくい
  • 地面の硬さや危険性を感覚的に判断できる
  • 鼻を使った精密な操作で、丸太や岩を選別して動かせる
  • 狭く不安定な山道でも進入可能

という特性を持っています。

重機では危険な現場において、ゾウは「前近代的な労働力」ではなく、地形条件に適応した移動・作業手段となるのです。今回の災害対応は、その能力が再評価された事例と言えるでしょう。

■アジアでは歴史的に「ゾウ労働」に依存してきた

ゾウは古代インドや東南アジアにおいて、伐採と丸太の運搬、山岳地帯での輸送、軍事力(戦象)、宮廷儀礼、農業・建設労働など、社会インフラの一部として人間社会を長く支えてきました。

ゾウの身体能力と知能は、森林や山岳といった重機が入りにくい環境において特に重宝され、地域社会の生産活動や権力構造とも深く結びついてきました。

今回の災害対応におけるゾウの投入は、こうした歴史と文化の延長線上に位置づけることができ、労働の形を「災害対応」へと変えた現代的な例と言えます。

■スマトラゾウの個体数の減少は危機的に

スマトラゾウは、種子の散布や森林の形成補助、生態系の維持に不可欠な存在です。大型草食動物として広範囲を移動しながら植物の再生を促すことで、熱帯雨林の構造を支えてきました。

しかし、アブラヤシなどのプランテーションの拡大、熱帯雨林の違法伐採、農地との軋轢(あつれき)、密猟によって生息地は急速に破壊され、人間との衝突も相次いでいます。その結果、多くの個体が保全センターで保護される状況に置かれています。

つまり、森の縮小が、ゾウを「人間社会の働き手」へと追いやっているという、矛盾した現状があります。

アブラヤシなどのプランテーションの拡大がスマトラゾウの個体数減少に

なお、スマトラゾウは2012年にIUCNレッドリストで「絶滅危惧IA類」に指定されました。2025年時点での推定生息数は約2400〜2800頭とされ、極めて危機的な水準にあります。

■ゾウをめぐる倫理: 「必要な労働」か「搾取の継続」か

ゾウを災害対応に投入することについては、評価が大きく分かれています。

賛成派は、
・訓練されたゾウには活動や刺激が必要であること
・公共的な任務は観光ショーよりも福祉に近いと考えられること
・災害対応は人命を救うという明確な公益性を持つこと
・ゾウの存在が保全意識を高める可能性があること

などを理由に挙げています。

一方、反対派は、
・ゾウの捕獲や調教には暴力的な歴史が伴ってきたこと
・災害現場はゾウにとっても危険な環境であること
・労働需要がさらなる野生個体の捕獲を招く恐れがあること
・施設ごとに福祉水準の差が大きいこと

といった点を問題視しています。

問題は単純ではなく、ゾウを「守ること」と「使うこと」の境界をどこに引くのかという、ゾウの未来と保全の方向性そのものが問われています。

■ゾウ以外にも世界には類似の動物労働事例が

動物が公共事業や災害対応に関わる例は、世界各地で見られます。

  • アジア各地におけるゾウの森林作業や荷役
  • アフリカでのロバや牛による荷役
  • 山岳地域での馬やラバによる救助活動

これらは単なる伝統や慣習ではなく、地形やインフラ、経済条件に適応した合理的選択として再評価されつつあります。

一方で、動物福祉、安全性、倫理性をどのように担保するかという課題は、依然として解決されていません。

今回の出来事は、三つの要素が同時に衝突する「トリレンマ」を浮かび上がらせています。

  • 気候変動による災害増加
  • 開発とインフラ不足
  • 野生動物保全と動物福祉

災害に対応するためにゾウが必要とされる一方で、その背景には森林破壊と生息地の縮小があります。
保全を掲げながら、利用を続けざるを得ないという現実は、インドネシア社会が直面する構造的問題を象徴しています。

最大の問いは、「絶滅危惧種に、私たちはどこまで「役割」を求めてよいのか」です。

瀧波一誠(たきなみ・いっせい)
一般社団法人日本地域地理研究所代表理事。私立学校及び(株)カルチャー講師。防災士。「地理とは暗記科目ではなく、生存戦略の記録である」を信条に、自然環境や社会環境が経済・文化などに与える影響を研究。現代の国際情勢を論理的に読み解き、課題解決に向けた地理的視点の提言を行う一方、執筆、講演、企業研修、ビジネスパーソン向け教養講座などを通じ、現代社会を生き抜く武器としての「実学としての地理」の普及に努めている。

※この記事は、執筆者のnote「The Geography Lens/まいにち地理Newsの記事「スマトラ島の災害現場に象が現れた理由とは?」をオルタナ編集部にて一部編集したものです。

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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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キーワード: #生物多様性

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