記事のポイント
- 北極海はこれまで「氷に閉ざされた聖域」と思われてきた
- しかし今、猛烈な勢いで新しいシーレーン(物流の大動脈)へと変わりつつある
- そのことを示す1枚のヒートマップをもとに、北極海の地政学を解説する
これまで「氷に閉ざされた聖域」と思われていた北極海が今、猛烈な勢いで「新しいシーレーン(物流の大動脈)」へと変わりつつある。データ可視化の専門家が作成した1枚のヒートマップがそれを示す。企業のサプライチェーンや、北海道など北日本の経済・産業にも影響を与えうる北極海の地政学を解説する。(地理学・世界観分析家・瀧波一誠)

普段、メルカトル図法を見慣れていると、北極は「北の端っこ(世界の天井)」に見えます。
しかし、地球儀を北(上)から見てください。北極海こそが、米・ロ・欧・日を結ぶ「世界の中心にある地中海」であることが分かります。
温暖化により北極海の海氷が溶け、その影響で航路が開き、その覇権を巡って大国が群がっています。今の状況は、「誰がこの新しい海の支配者かを決める偉大なゲーム」が、すでに始まっていることを意味しているのです。
■1枚のヒートマップが暴く「不都合な真実」
そのことを示すのが、データ可視化の専門家・ミロス・メイクス・マップスが作成した1枚のヒートマップです。この地図上の「赤とオレンジの光」は、船舶のトラフィック(交通量)を表しています。
ヒートマップ(下の図の左側)に注目してください。右下(ロシア)の異常な明るさと、左上(北米)の暗さの差異には、「地理的な格差」と「北極海を巡るパワーバランスの変化」が見て取れます。

© Map visuals by Milos Makes Maps (@milosmakesmaps)
右下(ロシア側)の鮮やかなオレンジ色の光が帯のように連なっているのは、「北極海航路(NSR)」です。一方、左のカナダ・アラスカ側の「北西航路(NWP)」は真っ暗です。
同じ北極海でありながら、なぜこれほどの格差が生まれるのでしょうか。
■ロシア側の航路は「海の高速道路」
この差異は発生する地理的な理由は、「海底地形」と「海岸地形」にあります。
ロシアの排他的経済水域(EEZ)内には、世界最大級の大陸棚が広がっています。水深が浅く、海岸線も比較的単調です。
そのため、温暖化で氷が後退すれば、そこは障害物のない「広大な海の道」になります。
実際、横浜〜ロッテルダム(オランダ)間の航行距離は、スエズ運河経由の約21000kmに対し、北極海航路は約13000kmと、約40%もの距離短縮が可能です。
対してカナダ側は、無数の島々が入り組む氷の迷宮、「多島海(アーキペラゴ)」です。
島と島の間にある狭い海峡は、風や海流によって流氷が押し込まれやすく、「氷の逃げ場」がありません。夏場でも予測不能な氷が残り、航行にはリスクが高すぎるのです。
つまり北極海では、自然条件がロシアに圧倒的なアドバンテージを与えています。
■ヒートマップの光の正体は「中露エネルギー同盟」
そしてヒートマップの光の正体は、通過交通(トランジット)ではありません。「資源の運び出し」です。
地図で示した、ロシアのヤマル半島周辺(右手中央少し上)に注目してください。ここには、年間生産能力1,650万トンを誇る巨大プロジェクト「ヤマルLNG」があります。
重要なのは、ここへの出資比率です。
ロシアのノバテク社が主体ですが、中国石油天然気集団(CNPC)が20%、シルクロード基金が9.9%を出資しています。つまり、中国資本が約3割を握っているのです。
中国は自らを「近北極国家」と定義し、ロシアと連携して「氷上のシルクロード」構想を推進しています。
ロシア政府はかつて、北極海航路の貨物量を2024年に8000万トンまで引き上げる目標を掲げ、以来、砕氷能力を持つ特殊なLNGタンカーがここからアジア・欧州へガスをピストン輸送し続けています。
つまり、この赤い光は欧米の制裁下で結びつきを強める「中露エネルギー同盟」を可視化したものとも言えます。
■北極海の軍事と安保も「40対2」でロシア側が有利
この海を制するためのハードパワーにおいても、均衡は崩れています。
氷の海を航行可能にする「砕氷船(アイスブレーカー)」の保有数です。
ロシアは40隻以上を保有し、世界で唯一、原子力砕氷船「アルクティカ級」など7隻以上を運用中であるのに対し、米国はわずか2隻、しかも稼働可能な大型砕氷船は、1976年就役の老朽船「ポーラー・スター」と中型の「ヒーリー」のみであり、米露間には「40対2」という絶望的な格差があります。

冷戦後、米国の方針とは裏腹に、ロシアはこの海を「要塞化」しました。
■グリーンランドが欲しいトランプ大統領が警戒するものとは
また北極海には、「3つのチョークポイント(要衝)」があります。

一つは、地図右下のバレンツ海です。ロシア北洋艦隊の母港ムルマンスクがあり、戦略原潜が潜む「聖域(バスティオン)」であり、NATO(北大西洋条約機構)最北の加盟国、ノルウェーと直接対峙する軍事的最前線です。
二つ目が地図左上のベーリング海峡で、ここは太平洋と北極海をつなぐ「唯一の出口」です。最狭部は約85kmしかありません。仮にここが封鎖されれば北極海航路が機能不全に陥りかねない、米露が目と鼻の先で向き合う軍事的にも強い緊張感が漂う海域です。
そして三つ目が、「GIUKギャップ(グリーンランド・アイスランド・英国)」と呼ばれる、北極海から大西洋へ出るための出口です。トランプ大統領がグリーンランドを領有すると発言し続けている背景には、中国がここでの空港建設やレアアース(クバネフィエルド鉱床など)の開発に関心を強めていることへの強い警戒感があるのです。
■北極海の地政学は、企業のサプライチェーンや北日本の経済を変える
日本にとっても「遠い国の話」ではありません。北極海のパワーバランスの変化は、日本のビジネス環境と直結しています。
一つは、「スエズ・パナマ」のリスクヘッジとしての役割です。紅海およびアデン湾の治安悪化やパナマ運河の渇水による運用障害など、既存の要衝が不安定化する中で、距離で約40%、日数で約10日以上を短縮できる北極海航路は、極めて重要なバックアップルートになります。
もう一つは、北海道が「シンガポール化」するポテンシャルです。ベーリング海峡を抜け、アジアに入って最初に到達する不凍港エリアは、苫小牧や石狩などの北海道です。北回りの物流が本格化すれば、北海道を中心とする北日本は「世界の物流ハブ」になり得るポテンシャルを持っています。
そして三つ目が、地図には示されない「デジタル・シルクロード」、すなわち海底ケーブル網です。北極経由の光ファイバーケーブル(Arctic Connect構想など)は、東京〜ロンドン間の通信遅延を約30%(約154ミリ秒を約130ミリ秒以下に)削減できると試算されています。近年の高頻度取引(HFT)の世界では、この「数ミリ秒」が数億ドルの利益の差を生みます。
※この記事は、執筆者のnote「The Geography Lens/まいにち地理News」の記事「【地図分析】世界地図の「天井」が燃えている。一枚の地図で読む北極海の地政学」をオルタナ編集部にて一部編集・抜粋したものです。



