記事のポイント
- 長野県富士見町の森の中に、1日1人限定のアートスペースが立ち上がる
- ピアノを弾いたり、絵を描いたり、人目を気にせず表現活動に没頭できる
- 企画したのは元薬剤師、心を病む前の人向けのメンタルケアに取り組む
都内から車で約2時間の長野県富士見町(ふじみまち)の森の中に、1日1人限定のアートスペースが立ち上がる。利用者はピアノを弾いたり、絵を描いたり、人目を気にせず表現活動に没頭できる。企画したのは、元薬剤師の廣瀬明香さん。「心のケア」を問う。(オルタナS編集長=池田 真隆)
自然に囲まれ、都内からのアクセスも良い長野県は地方移住先の人気エリアだ。2022年度の移住者は3000人を超え、過去最多だった。同県の中央部にある富士見町(ふじみまち)は周囲を南アルプスや八ヶ岳に囲まれ、田園風景が広がる高原地帯だ。
薬剤師として約10年働いた廣瀬さんは、2023年4月に都内からこの町に家族で移住した。移住した最大の理由は、この地でソーシャルビジネスを立ち上げるためだ。同年8月に、とわいろ(長野県茅野市)を創業した。
同町の山林を購入し、そのスペースを活用し、「心のケア」に取り組む。SNSや子育てなどで心が病んでしまう前の人を対象にしたメンタルケア事業だ。

■「好きなことをすることで、自分らしさに気付く」
その手法はユニークだ。メンタルケアには、他人の目を気にせず表現活動に「没頭」することが有効だと考えた。
「自分の好きなことをすることで、自分らしさに気付くはず」(廣瀬さん)
施設に用意したのは、ピアノなどの楽器と絵具・キャンバスだけだ。自己表現に集中できる環境を整えるため、極力シンプルな作りにした。演奏や絵を描く以外にも、自分の好きなことをして過ごすことができる。
コンセプトは、「とっておきのおひとりさま時間」とした。「とっておき」を演出するため、施設を利用するまでの過程にもこだわった。

施設に来るまでに、好きなことに没頭できる環境、心地よいと感じる瞬間などを聞く。オーダーメイドで利用者一人ひとりに最適な空間に仕上げる。
利用できるのは、一日一人だけ。施設までは一人で来ることを求めた。施設内への携帯電話やパソコンなどデジタル機器類の持ち込みは禁止だ。
2024年春から着工を始め、同年夏から冬にかけてオープンする予定だ。今は、宿泊機能はないが、年内には宿泊できるように施設を拡充していく考えだ。この事業の公益性と社会性が評価され、長野県が県内の社会起業家を対象に創業資金を支援する補助事業に採択された。
クラウドファンディングで建設費用の一部として300万円を募った。11月23日から1月8日まで資金を募ると、現時点で223人から323万円が集まった。
日本の幸福学研究の第一人者である慶応義塾大学の前野隆司教授は、「自然の中にいると幸福度が高まるという研究結果や音楽や図工など創造的な活動をする人は幸福度が高いという研究結果もある。この活動は、まさに自分の幸せについて見つめ直すことにつながる活動だ」と評価した。
■「生きる」とは何か、父を看取り、命題生まれる
廣瀬さんはどのような人物なのか。もともと廣瀬さんが薬剤師を志したきっかけは、医療格差を目の当たりにしたからだ。日本では薬を処方することで治る病気も、途上国の無医療地域ではその病気がきっかけで命を落とすことにもなる。この格差の是正に取り組みたいと考えた。
薬剤師として働き約10年、本格的に国際協力活動を始めようとしていた矢先、医師である父親の病気が発覚した。
全身の筋肉が衰える難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)だった。余命はわずか2年だった。
治療法がないALS に掛かった患者は、次第に自分で動くことができなくなり、最終的には呼吸もできなくなる。
延命措置として、人工呼吸器や胃ろうを使うが、その代わり話すことも食べることもできなくなる。だが、廣瀬さんの父親は延命措置を選ばなかった。
父親を看取った廣瀬さんの中に命題が生まれた。それは「生きる」とは何か、だ。
「父の生きざまを見て、人生を全うすることは、長く生きることだけではないと実感しました」
現代医療だけでは癒せないものがあると考え、「人生を豊かに彩ることに関わりたい」と覚悟を決めた。
こうして廣瀬さんは薬剤師を辞め、社会起業家になった。「心のケア」といっても、その定義は広い。そこで、自分自身に置き換えて考えた結果、好きなことに没頭することで自分らしさに気付くという仮説を立てた。
廣瀬さんは幼少期からピアノの演奏が好きだった。ただ、慌ただしい都会の生活では自由気ままに弾く機会は減り、「自分の好きに蓋をする状態になっていました」と明かす。

どこで弾くと心地よいと感じるか、電子ピアノを担いで見つけた場所が、森の中だった。こうして、森の中でアートスペースをつくる取り組みが始まった。このプロジェクトの名称は、「森と、ピアノと、 」。あえて最後の一文字を空白にした。その意図は、利用者一人ひとりに埋めてもらうためだ。
廣瀬さんの思いに共感した多彩なメンバーも集まった。廣瀬さんは薬剤師として働いてきたので、医療分野には長けているが、マーケティングやブランディング、デザイン、PRなどは未経験だ。
その分野を他のメンバーがサポートする。パートナーの石島知さんは、電子お薬手帳アプリを開発するharmo(ハルモ、東京・港)の社長だ。プロデューサーとして、企画全般をサポートする。その他、建築、デザイン領域などに優れた有志メンバーがいる。
・森と、ピアノと、 とっておきのおひとりさま時間を過ごせる場所
・300万円の目標金額を達成したクラウドファンディングのページ