彼が「悪党」の出身であったとすると、「朝恩に誇った」としても、門地や身分に厳しい当時、後醍醐天皇との間に、帝と公卿、将軍と御家人のような「君臣」あるいは「御恩と奉公」といった関係を築くのは難しかったのではないか。ましてや、当時の朝廷の仕組みのなかで、天皇と個人的な絆があったと考えるのは、常識的には無理があるだろう。新田義貞のように「美女」を下賜された訳でもない。しかし、彼は生涯を通じて後醍醐天皇に対し、まさに歴史に残る忠義を尽くした。

財産や利権をめぐる一族の争いが、同じような天皇家や、将軍家、大名家の争いとも結びついて全国で戦乱が続いた南北朝から応仁の乱に至る時代。欲得で離合集散した世相の中で、何が彼を突き動かしたのだろうか。

日比谷公園側から撮影した警視庁のクスノキ。35年後の2050年、東京はいかなる植生に覆われているのだろうか。私たちや私たちの身近な人たちは、どのような社会に生きているのだろうか。

日比谷公園側から撮影した警視庁のクスノキ。35年後の2050年、東京はいかなる植生に覆われているのだろうか。私たちや私たちの身近な人たちは、どのような社会に生きているのだろうか。

楠木正成が、新田義貞でなく敵方の足利尊氏を評価していたことは、尊氏自身も知っていたことだろう。ましてや湊川では義貞に、形として置き去りにされ、加勢もなかった。戦わずして降ったとしても、あるいは、そのまま尊氏軍に合流しても、当時の時流からは何ら責められるような状況ではなかったろう。

正成は、無駄な犠牲を嫌い、鎌倉幕府軍との戦いの中で、「坂東一の弓取り」とされた宇都宮公綱と対峙したときは、あえて戦わずして引き、「戦場で命を捨てることは塵や芥よりも軽いこと」との言葉を残したという。

その正成が、湊川では何故、死に場所と決めたような戦いをしたのだろうか。後醍醐天皇への忠義とともに、思想的な背景がなければ、理解しがたく感じられる。もとより、それらに加えて、知略と人格的な魅力に溢れた武将だったに違いない。でなければ、夏の一日、数十倍の敵軍と戦い、そのうえで、73人とも伝わる主従が揃って自害、という合戦など出来ようはずがないからだ。

河内地方始め各地に、楠木正成直筆とされる書が何通か伝わる。いずれも高い教養をうかがわせる能筆と聞く。今夏、長野県上田市で開催された展覧会に出展された書も、墨蹟、内容とも参観者に感銘を与えたという。

以前、楠木正成には「宋学」の素養があったのだろうと読んだ。正成は、情報に基づき合理的に判断する人であるとともに、自らの信じる大義や名分を精神的支柱として乱世を生き抜いた人ではなかったか。そして、時代の最終的帰趨を見極めた後、後世までも見据えながら湊川を死に場所と定め、その命を使い切ったのではないだろうか。

警視庁のクスノキは、移植後35年経過した。今でも近くを通るたびに、最初から自生するかのごとく益々繁茂するクスノキたちを見上げてしまう。そして最近は、そこにクスノキの林があることが当たり前で、何の違和感もない。都内でクマゼミの声もめずらしくない。気がつけば、身の回りでも温暖化は年々確実に進んでいる。

自らの生き様や人生の評価を、後の世に委ねる、ということは、社会が持続してこそのことだ。名を惜しむ先人たちが評価を託した後世。私たちは今、後世よりはるかに身近な近未来において、社会の持続可能性を維持できるか否か、深刻な環境問題に直面している。

今世紀末における年平均気温の上昇を2度未満に収めるべく、温室効果ガスの削減に向けて、気候変動枠組条約COP21が、パリで開催されている。現在の私たちの行動は、私たちの子や孫の世代から、どのような評価を突きつけられるのだろうか。

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