野球の神様からの贈り物

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(23)

 亡くなる前にひとつだけ願いごとを聞いてやると言われたら何と答えるだろう。ある意味残酷な問いかけである。ましてや子供が難病で答えるのがその父親となると、考えるだけでもつらい。
 小学校5年生になる息子の亮が筋ジストロフィーを発症し、治すには生命の危険を伴う背骨矯正の大手術が必要だと医者から告げられた日、亮の父親はショックで眠れなかった。事情を知った兄が珍しく電話をかけてきた。無口だが、家族思いの兄らしく温かい声でささやいた。「お前が泣いてどうする。気をしっかり持て。実は、難病の子の願いをひとつだけ聞いてくれるNPOがあるらしい」。
 ディズニーランドへ行きたい、野生のイルカと一緒に泳いでみたい。そんなかわいくも切ない願いが多いらしい。父親は目をつむって深い思考の淵に沈み、ようやく一週間ほど前の亮のつぶやきを探し当てた。ベッドに臥せながら大リーグの野球中継を見ていた時、亮は確かこう漏らしたのだった。
 「イチロー選手ってかっこいい。野球の神様だね」
 イチローは本名を新一郎といい、メジャーリーグでは正式には「ニュー・イチロー」という名で登録されていたが、皆イチローと呼び慣わしていた。
 思い切ってダイヤルすると、電話に出たNPOの男性スタッフは一瞬、息をのんだ。
 「イチロー選手に息子さんを会わせられないか?そういう希望は初めてですね。マイアミですか。遠いですが、難病のお子さんの夢は大事です。ちょっと調べてみましょう」
 スタッフの対応は淡々としたなかにやさしさを感じさせた。ほとんど期待していなかったが、二週間ほどしてそのスタッフが突然自宅を訪ねてきた。嶋田と名乗った。定年後の元サラリーマンだと自己紹介をした。
 「亮君のことをもっと知りたいと米国のNPO本部から問い合わせてきました。野球がどれくらい好きか、もしマイアミに行くことになったら、病気の体が飛行機での長旅に耐えられるかとか。いかがでしょう」
 NPOの誠実さに少し驚きながらも父親は精一杯説明をした。父親自身が元甲子園球児で、亮はその影響で小さいころから野球が好きなことや、小学3年生で地元のリトルリーグに入り、毎晩、グラブに油を塗って布団の下に敷いて寝ていることなどを話した。病気でキャッチボールもできなくなったが、もしイチローに会えたら病気に挑戦してくれる、そんな期待も伝えた。ただ、手術はリスクが大きく、亮も怖がっていた。
アリゾナ州発祥のこのNPOは、警察官になりたかった白血病の男の子を州の名誉警察官に任命し、大人の本物の警察官といっしょにパトロール業務をこなしてもらった。5日後、少年は亡くなったが、その時の笑顔が忘れられなくて関係者がNPOを設立し活動を世界に広げているのだという。
 「嶋田さん、まさか本当にイチローに会えるんじゃないでしょうね」。父親は思わず、そう聞いた。嶋田さんは、難しいんじゃないかな、期待しないようにと横を向いた。
 「いやあ、驚きました。米国本部から、とにかくマイアミまで来てくれと至急メールが入ったんですよ、今朝」と突然、嶋田から電話があったのは、間もなくのことである。医者はキツネにつままれたような顔のまま、まだ体力はあるよと長旅を許してくれた。
 マーリンズ・パークでは刈り込まれた緑の芝が亮を迎えてくれた。目の前でニューイチローが柔軟体操をしている。ブン、ブンという素振りの音が間近で聞こえる。「イチローがんばれ!」。日本から用意してきた応援メッセージを広げると、イチローがこちらに向かってVサインをしてくれた。
 「パパ、イチローがこっちを見たよ」
 「本当だ。亮、マイアミまで来てよかったな。本当にイチローに会えたじゃないか。日本の友達に自慢できるな」
 その時、付き添ってくれていたNPOスタッフのロバートが、こちらへと、ダッグアウト裏の小部屋へ案内してくれた。
 信じられないことが起きたのは、その時だ。あのイチローが部屋に入ってきたのだ。父親は突然のことに口が聞けなかったが、亮はニコニコしている。
 「亮君、調子はどう」。帽子を脱いだイチローが声をかけてきた。友達に話しかけるような気さくな感じだった。
 「ぼく、いま病気なんだ。イチローさんが飼っている一休っていう犬も病気なんでしょう」
 「よく知っているねえ。一休は最近ちょっと調子が悪いんだけど大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
 「イチローさん、3000本安打達成、おめでとう。次は4000だね。これ、お守り。日本から持ってきたの」
 「本当? やさしいね。じゃあ、お守りのお返しに」。そう言ってイチローははめていた黒い野球手袋を脱ぐと、亮に握らせた。そして付け加えた。
 「亮君、大きな手術があるらしいけど、うまく行くといいね。頑張ってね、約束だよ」
 亮は手袋を握りしめて大きくうなずいた。イチローはにっこり笑うと風のようにフィールドへ駆けて行った。ロバートが口を開いた。
 「亮君の夢を聞いた時には、とても無理だと思ったんだがね。イチロー選手が是非君に会いたいと言ってくれたんだ」。そして声をひそめた。「だけど、きょうのことは内緒にしてくれないか。君がイチロー選手に会ったことが皆にわかったら希望者が殺到して大変なことになってしまうからね」。
  亮がロバートに尋ねた。
「それって、イチローさんの希望なの?」
 ロバートは両手を広げ、笑った。
 「いや、イチロー選手はそんなことは言わないよ。これは私からのお願いさ。君のようにイチロー選手に会いたいという子がまた現れるかもしれない。そしたら、その子もそっと会わせてあげたいじゃないか」
 わかったよ。ぼくはイチローさんから野球手袋と一緒に勇気をもらった。これが僕の宝物。会ったことは心の中にしまっておくよ」。
 ロバートはカバンから大きな包みを取り出した。ニューイチロー人形だった。亮がポーンと頭をたたくと、イチローはウンウンという感じで、大きく首を振った。

 (完)

※登場する人物・ 団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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