◆「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(37)
思うところがあって少しばかり前に会社をに辞めていたので、桜の季節に霧子が亡くなっていたことを知らなかった。会社の元の同僚は誰も教えてくれなかった。訃報に接して頭に浮かんだのは、不謹慎なことだがまさか自殺ではないだろうなという疑念だった。まだ三十代と春秋に富んでいるが、最近ふさぎこみがちだと聞いていたからだ。
かなりの量の睡眠薬を飲んでいたらしいが、遺書がないことから警察は事故死と断定したという。霧子のマンションはすでに処分され、彼女が雑誌社のカメラマンとして走り抜けた青春の痕跡はすっかり消え失せていた。
風が薫る季節に霧子の故郷を訪ねた。遅ればせの墓参りのつもりだった。新幹線から私鉄に乗り継ぐと、緑と黄色のツートンカラーの電車が湖を背に鄙びた街をガタゴトと縫うように走っていく。林檎の産地らしく薄紅や白い花が車窓を飾っている。買い物帰りの女性や笑い合う中学生たちの風景がどこか懐かしかった。
さっきまで本に目を落としていた小柄な女子高生が白いのどを見せて中吊り広告を見上げていることに気が付いた。そこにイラスト付きの短歌の入選作が張ってある。
「電車って、恋が芽生える温室かもね」
沈んでいた心が一瞬和んだ。隣に座っていた品のいい白髪の女性が「電車にまつわる青春の思い出を募集したんですの。ホラ、電車の車体にも描かれているでしょう」とホームの反対側を指さした。白いペンキで「好きもさよならも同じ駅」と大書してある。
「おしゃれですね」
「ええ、この電車が廃線の危機だというのでNPOの人たちが考え出したアイデアなんですよ」
さっき見たのが、金賞だという。
「昨年の作品の方が秀逸なものが多かった気がするわ。私が好きなのは、『あなたと乗った三年間 各駅だけど特急だった』。ねっ、いいでしょう」
青春はほろ苦く甘酸っぱい。霧子もセーラー服姿でこの電車を利用し、誰かに淡い恋心を抱いたりしたのだろうか。その霧子はもういない。痛みに似た喪失感が胸に迫ってきた。