ミラーワールドの憂い


 向かいのマンションに誰か引っ越してきたらしい。そういえば昨日、引っ越し業者が荷物を運んでいた。大きなマスクをした女がカーテン越しにチラリと見える。どこかで会ったような気がしたが、誰だったか。
 ふとベランダに目をやると、舞い降りる雪の下にワインの空き瓶が見える。何を飲んでいるのだろう。気になって双眼鏡でエチケットを読んだ。「シャス・スプリーン」。メドック地区のムーリスにあるワイナリーだ。憂いを払うという意味の名前で、有名な詩人ボードレールの詩から名前をとっている。
 熱は引かないが、郵便物が気になって1階に下り、思い切って外に出てみた。向かいのマンションの玄関に人影が見える。何か張り紙をしていた。マスクとフェースガードをして紺の防災服を身に着けている。威嚇的で近づくと怖い顔でにらむ。彼らが立ち去るのを待ってそっと張り紙の文字を目で追った。
「感染者は出ていけ。自粛警察」
 このマンションは空き部屋を感染者に提供しているようだ。部屋に戻ると、役人がテレビで「密集、密接、密閉の三密」を避けるよとがなり立てていた。
 引っ越し女は「憂いを払う」ワインを昨晩ひとりで空けたのだろうか。コロナ撃退のおまじない?窓から見える女の部屋はガラスが反射して中の様子はうかがえない。
 その夜はよく眠れなかった。亡くなった父のことを思い出したからだ。結婚前、夫を家に連れて行った時、「信用できないタイプだな」と父は断じた。あれ、当たりだったわねと夢で話しかけたら、口を歪めて笑ったような気がした。
 まだ明けきらぬ薄闇の中、握りしめていた双眼鏡を覗いた。期待通り、空き瓶が置いてあった。カラフルな遺跡のフラスコ画が細く巻かれている。「ヴィッラ・ディ・ミステリ」だった。2000年前、大噴火で灰に埋もれたポンペイで飲まれていた古いワインを復活させたものだ。遺跡に埋もれていたブドウ品種ピエディロッソ90%とシャシノーゾ10%で造られている。
 そんな昔のブドウが復活するのは驚きだが、私の脳裏にはポンぺイ遺跡を訪ねた時に見た石膏像の恐怖と苦悶の表情が浮かんだ。
 それにしても不思議だ。私は、ベランダに置かれた2本のワインを知っている。どこで飲んだのだろう。
 テレワークで「パッヘルベルのカノン」を12人のバイオリニストがそれぞれに自宅にいながら見事に合奏している。
 この病気は戦争のようにある日、大きな衝撃をもってやってくるわけではない。熱狂も怒りも伴わない。ただただ静かに、しかし無遠慮にじわじわと私たちの街に部屋に、そして心に、着実に入り込んでくる。無言のまま、繰り返し波が岸に寄せるように私たちを冒し、傷つけ、心臓を食い破る。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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