ミラーワールドの憂い


 いつの間にか過去と未来の境目が分からなくなってきた。現実の世界とは異なり、デジタルによる拡張現実が生み出す鏡像世界は無制限な移動を可能にする。
 そうだ。その時、はっきり思い出した。このワインは私が飲んだワインだ。クルーズ船から暗い海を見つめながら。
 遠くから救急車のサイレンが近づいて来た。あわてて玄関から飛び出す。向かいのマンションから担架が出てきた。誰もが厳しい表情をしている。だめ、手遅れだった、ミラーワールドはボーダレスだから国境を越えて助け合わなくてはと救急隊員が囁きあっている。
 思わずのぞきこむ。横顔が見えた。あの女だ。すると、担架が揺れて体が回転し、顔がこちらを向いた。私は思わず、あっと、声をあげた。それは青い顔をした私だった。安らかな表情をしている。
 救急ボランティアのひとりが不審そうな顔で私に近づいてきた。
「ちょっと、そこのあんた、変わったゴーグルしているね」
 そうだ、ミラーワールドを覗くためのウエアラブルな電脳眼鏡「ARゴーグル」をつけていたんだ。私は逃げようとしたが、体が動かなかった。遠くで誰かが私を呼んでいる。誰だろう。ワン、ワンとうるさい。愛犬のチョロだと気づいた。
 目を開けると携帯が鳴っている。もしもし、陰性でしたよ。クルーズ船をおりた時の検査結果をようやく知らせてくれたのだ。よかった。いつの間にか熱も下がり、咳も止まっている。ただの風邪だったようだ。あの女は死に、私は生き残った。死んでいる私と生きている私。過去と未来。やはりミラーワールドは時間も距離も軽々と越えるパラレルワールドだ。私はそのとば口に立っていたのだ。新しい時代がすぐそこまで来ている。
  (完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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