人間が介入した「二次的な自然」も悪くない

■小林光のエコめがね(20)
本欄のテーマは、優れたビジネスを行うため、生態系の進化の仕掛けに学ぼうというところにある。では優れた、すなわち攪乱に強く持続可能で豊かになっていく生態系とは、どんなものだろうか。

それは、いろいろなものが豊穣にあるのに乱雑放縦ではなく、「かくあるべし」というつながりが垣間見える。結果的には、「あるべきものがあるべきところにある」といった姿で観察されるものではないだろうか。

生態学の研究が進んで蓄積された知見もあろうが、「あるべきものがある」との感覚は、人類が長い進化の歴史を重ねてきた結果得た、いわば直観である。ところで、その理想の姿を、直観を頼りに人の身近なところで作為的に作ってしまうことは許されるのか。

尊敬する老子なら「無為自然」とおっしゃるだろう。論者は、人が、良い自然の在り方に無頓着で好き放題するのと、一人よがりでも自然をリスペクトし、その質を高めようと介入するのとでは、天地の開きがある、と思っている。

その観点で、前回は庭のエコロジカルな価値の回復を訴えた。今回は、自治会、町内会レベルの、良き自然に向けた介入例を紹介しよう。

論者が2地域居住する一方の八ヶ岳山麓は、基本は田園地帯である。標高の高い限界的な集落を除き、伝畑はきちんと使われていて、「田舎はこうでなくちゃ」という景観を保っている。景観が保たれているとの感覚の生まれる重要なメルクマークは、荒廃する耕作放棄地がない、田畑の法面が草ぼうぼうではない、という視覚信号ではないか。

大昔は、雑草も貴重な資源で飼養する家畜の餌にするためきれいに刈られていたはずだからだ。現代では、雑草を餌に飼われている家畜はいないのに、なぜ人々はエンジン駆動の草刈り機をうならせて自分の地所でせっせと草を刈るのか。やはり、遺伝的に染みついた、あるべき近隣環境の姿につき動かせられているからではないか。

自治会の普請では、共有地や公共の場所(公道や農業用水路の法面など)の草刈りが有無を言わせない動員力で徹底的に行われる。私の住んでいる茅野市では、「区」と呼ばれ、都会の町内会などとは違って、行政の必須の一角を担う。古くから住む人は入会の財産を継承して共同管理し収益する「財産区」という、法的実体のある自治組織に参加している。これと二重になって、資金力もある。

最近は、単なる草刈りにとどまらず、もう一工夫ある介入、望ましい「自然」づくりが行われている。

メルヘン街道コスモス植え付け後
hikaru

小林 光(東大先端科学技術研究センター研究顧問)

1949年、東京生まれ。73年、慶應義塾大学経済学部を卒業し、環境庁入庁。環境管理局長、地球環境局長、事務次官を歴任し、2011年退官。以降、慶應SFCや東大駒場、米国ノースセントラル・カレッジなどで教鞭を執る。社会人として、東大都市工学科修了、工学博士。上場企業の社外取締役やエコ賃貸施主として経営にも携わる

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