「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(20)
長く勤めた精密機械メーカーを定年まで1年を残して辞めた。少し我慢する手もないではなかったが、社長の傲慢さが腹に据えかねた。心臓が悪いといううわさもあるが、憎まれっ子世にはばかるの言葉通り異様なほど元気で、些細なミスをとがめられ嫌味を言われ続けた。殺してやりたいと思ったのも一再ではない。親の遺産もあり老後に不安はない。体も動く。さて、何をと考えて思いついたのが便利屋のNPOで「萬(よろず)」と名付けた。
町の広報誌にちょっとした広告を載せただけで反響があった。庭の手入れや屋根の修理、それでなければ浮気調査、離婚相談といった類を予想していたのだが、当てが外れた。
多かったのは、例えば、「命を狙われている、助けて」「子どもがうるさいので、殺してくれないか」。物騒な世の中になったものだ。
最初の仕事は、子どもの見守りに決めた。横浜のシングルマザーからの依頼で、娘が都心の私立小学校に通うことになったが、ひとりで通えるか不安だ。1週間ほど遠くで見守りながら送り迎えをしてくれないかという相談であった。
バス停で待っていると、その娘の友梨ちゃんがやってきた。大きなマスクをしているが、背格好、目の大きさや形をあらかじめ頭に叩き込んであるので、すぐわかった。バスで横浜駅へ出て、そこから私鉄で都心に向かう約1時間の通学は慣れないと小学1年生にはハードルが高い。バスはすいており友梨ちゃんは運よく座れた。私は目立たぬよう斜め後ろに立った。「無口というか幼稚園でも他の子供さんとコミュニケ―ションがうまくとれなかったんですよ」。そんな母親の言葉を思い出した。それにしても雛鳥真佐子はどうしたのだろう。萬屋の広告を見て押しかけてきたボランティアの大学生で、見守りにも参加すると意欲的だったのだが。
友梨ちゃんの声がする。
♪日曜日に市場へ出かけ 糸と麻を買ってきた テュラテュラ・・・
歌をうたっているのだ。
横浜駅からの電車は込んでいた。小さな体がつぶされかけ、思わず手を出しかけたが、その前にOL風の女性が肩を抱いてくれた。「大きなカバンね。このお兄さんが席を譲ってくれるから」と若い男を強引に立たせて座らせてくれた。あれっ、真佐子じゃないか。いつの間に。
♫月曜日にお風呂をたいて 火曜日にお風呂に入り・・・
次の日、先頭の車両が女性専用車だとわかり、友梨ちゃんはゆったり座った。私は隣の2号車から見守るしかない。ちょっと様子がおかしい。緊張のせいか顔色が悪い。乗り物酔いをするらしいから、そのせいか。あっ、口元を手で押さえている。隣りに座っている金髪のお姉さんは大口開けてサンドイッチをかじっている。非常事態だ、やむを得ないとドアを開けようとした時、金髪がコンビニの袋を渡し「よかったら使いなよ」。意外に親切な女性だったのだ。ン!?また真佐子だ。変装までするとは。
♩水曜日にあなたとあって 木曜日は送っていった・・・
バスが渋滞で遅れたせいで、1号車まで間に合わず、この日も混雑した車両に乗らざるを得なかった。横浜駅を出て間もなくだった。
「キィー」友梨ちゃんが前を指さしながら金属的な悲鳴をあげた。それに促されたかのように女子高生が「や、やめてください」と叫んだ。近くにいたオジサンが「こら、お前だな」と若い男の腕を抑える。違うよ、俺じゃないと真っ青になった若い男はしらばっくれようとしたが、中年の女性が「この人よ。私も見てたから」と詰め寄り、男は観念した。ちょっと得意そうな友梨ちゃん。いろいろあるが、何とか金曜までは無事に終わってほしいいものだ。
♪金曜日は糸巻きもせず 土曜日はおしゃべりばかり・・・
きょうは女性専用車両に戻った。友梨ちゃんは電車に乗ってすぐハンカチが落ちているのに気がついたみたいだ。目の前を歩いているおばあちゃんが落としたらしい。お礼を言っているのだろう、嬉しそうに頭を下げたおばあちゃんは、友梨ちゃんの制服をつまんで懐かしそうな顔をしている。そのまま二人は隣り合って座って談笑していたが、学校の降車駅に着くとふたりでいっしょに降りた。おばあちゃんは学校近くで別れたが、この日、帰り道でちょっとしたハプニングが起きた。友梨ちゃんが校門を出たあたりでおばあちゃんが待っており、連れ立って駅とは逆の方向へ向かって歩き出したのだ。止めようかとも思ったが、危険はなさそうだったので、そのままにした。あわてて電力会社の腕章を腕に巻き、電柱をチェックするふりをして後をつけた。友梨は30分もしないで戻ってきた。
母親に電話して事情を話すと不機嫌になった。「そのおばあちゃん、亡くなった夫の母かもしれないわ。私が友梨に会わせないものだから、よくストーカーまがいのことをするんです。誘拐する気かしら」。
♫恋人よこれが私の一週間の仕事です・・・
友梨ちゃんはきょうは校門を出るとひとりでおばちゃんの家に向かった。若いママを装った真佐子が尾行についた。さて、しばらく近くの喫茶店で時間をつぶすそうかと思っていると、真佐子がボルト並みのスピードで駆け戻ってきた。「おばあちゃんの旦那さんが大変なの。救急車呼んで」。
おばあちゃんは玄関でぼんやりしている。「さっき主人が倒れたの。そのまま動かないんだけどどうしたのかしら。眠いのかしら」。居間で背広姿の男が倒れている。息をしていなかった。
救急隊員がバインダーを片手におばあちゃんと話していたが、らちが開かないのでこちらへやってきた。
「いくらか認知症気味のようですね。ご主人はとっくに絶命しています。心筋梗塞です。奥さんがこれでは、ご主人も苦労が絶えなかったんだろうな。で、おばあちゃんの名前は?」
戸惑う私の横から友梨ちゃんが答えた。
「行長奈穂子さんです。私のこと、孫と思い込んでいたみ
たい」
「こちらの方たちは?」と私と真佐子を指さす。
「私の見張り役のNPOさん」
そう言っていたずらっぽく笑った。
なんだ、知っていたのか、口数は少ないが何でも分かっている子なんだと思いながら、行長という名字が気になり死体の顔をのぞき込む。やっぱりそうだったか。社長に間違いなかった。
友梨ちゃんが来週から問題なくひとりで通学できることを母親に知らせるため携帯を取り出した。
(完)