シュロが繁茂しているということは、枯死はもとより、発芽を妨げるような冷え込みもない冬が続いているのだろう。また、いったん、成長し始めると、いかにも園芸品種のような南国風の姿から、誰かがわざわざ植えたように誤解され、伐採を免れてきたのではないかとも言われる。最近はさすがに、そういった誤解はないだろうが。
野鳥観察を主な目的にして各地の林に入っていた頃は、もっぱら、樹を見上げたり、さえずりに耳を傾けたりしていた。足元の下生えに、いかにシュロが増えているか、ということは、間違いなく視界に入っているはずなのに、特に意識しておらず、気付かなかった。
逆に、自然観察会のテーマに、林の下生えのシュロを取り上げ、明治神宮の中を
「あそこにもシュロ、ここにもシュロ」と言いながら歩いていた初夏の一日、遠くから何の鳥か、よく響く野鳥の声がしていた。
ふと腰を下ろし、目を休めるように耳を澄ますと、それは間違えようもない外来の鳥、ガビチョウの大きな鳴き声だった。侵略的外来種であるガビチョウの声すら特に意識しなければ、普段の野鳥のさえずりのように聞き流している。

いや、わざわざガビチョウを例に挙げずとも、セイタカアワダチソウやセイヨウタンポポなど多くの生きものが日本の自然や景色のなかにそれが昔からの光景、風物であるかのように定着している。
注意して観察すれば、すぐわかりそうな変化でも、何気なく歩いていると、気付かないまま通り過ぎてしまう。あるいは慣らされてしまい、変化を変化と感じない。気付いたときには、目に入る自然だけでなく、耳に届く野生もいつの間にか主役が交代しつつある。