2010年以降、中東諸国に広がった民主化運動「アラブの春」。チュニジアやエジプトなどでは当時の政権が打倒される一方、シリアでは政府と反政府勢力が争う泥沼の内戦に発展した。民主化運動に武力弾圧で応じるシリア政府軍に対して銃を取る若者たちに肉薄したドキュメンタリー映画「それでも僕は帰る ~シリア 若者たちが求め続けたふるさと~」(タラール・デルキ監督、シリア作品、2013年、89分)が、明日8月1日より東京・渋谷アップリンクで公開される。(オルタナ編集委員=斉藤円華)
■普通の若者が銃を取るシリア
カメラはシリアでも有数の都市・ホムスに住む2人の若者を追う。一人は市民カメラマンで、もう一人はユース代表チームでゴールキーパーとして活躍するサッカー選手だ。友人同士の2人は民主化運動に参加し、デモや映像を通して政府に立ち向う。
ところが政府は軍を投入して弾圧。2012年2月には軍の容赦ない攻撃で多くの市民が殺されてしまう。非暴力に徹してきた若者の多くが、ついに武器を手に取ることを決意。軍がホムスを包囲する中、絶望的な市街戦に身を投じていくのである。
反政府勢力は「政府を打倒し自由を勝ち取る」と気勢を上げるが、彼我の力の差は大きく、軍の武力は圧倒的だ。砲爆撃で建物は軒並み崩壊し、カメラの前で住民らがバタバタと銃弾に倒れる。市民カメラマンは負傷したのちに軍に拘束され行方不明に。元サッカー選手の若者も部隊を率いて軍に立ち向かうものの、劣勢をくつがえすには至らない。
非暴力のデモに発砲で応じた政府と軍の残虐さは厳しく批判されるべきだ。一方、反政府勢力に対しては一体どこから武器などの支援が行われているのか、映像では判然としない。カメラは反政府勢力に身を置く若者に密着するが、民主化の実現という大義に理解を示しつつ、しかし暴力の応酬を深めていく彼らに一定の距離を置いているような印象も受ける。
■大義むなしい戦争の現実
こうしたカメラの視線から浮かび上がるのは、戦争にからめ取られ、感覚が麻痺していく人間の姿だ。がれきと化した建物の中で、戦い疲れた若者がまどろむ。遠くに鳥のさえずりが聞こえたのも束の間、バリバリという銃声に静寂は破られる。自由を叫んだ頃の生気は、その表情から失われている。
いかに正義や大義を掲げても、破壊と殺戮の応酬だけが戦争だということを、本作品はよく伝える。映像はホムスに国連監視団がやってきたわずかな時間だけ、戦闘が止んだ様子を記録する。しかしこうした国際的な努力は、もっと早い時点でなされる必要があったということに、異を唱える人はいないだろう。
日本では安保法案が審議中だが、集団的自衛権の是非を議論する前に、私たちはそもそも戦争を避けるための努力を尽くしているのか。作品はそうした問いかけも含んでいるように思えた。