キムチ売りは「おばちゃん宣教師」 :こころざしの譜(18)

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(18)

玄児美(ヒョン・アミ)は駅前の通りを落ち着きなく行ったり来たりしていた。誰もが背を丸め家路を急いでいる。3日前、小学1年生になる娘の春琴(チュングム)が行方不明になった。都心の小学校に通わせているので駅まで迎えに出るのが常だが、用事があり遅れた隙に春琴は消えてしまった。夜になって警察に届けた。誘拐かもしれないというので公開捜査はせず様子をみることになった。「お母さんも心当たりを探して」と言われたが、行くあてはなかった。
ひんやりした夜気が忍び寄ってくる。もう帰ろうかと思った時、闇の中にボーッと白装束が浮かび上がった。重そうに屋台を引く歳とった女性だった。
「こんばんわ、手作りのキムチはいかがですか」。白い前掛けに赤いキムチは映えた。
「マシッソヨ(おいしい)、母の味だわ」。児美が思わず声を上げると、「韓国の方なの?」とおばちゃんの方が驚いた。
その時、音もなくパトカーが近づいてきた。「こら、またキムチ屋か。道路使用許可をとってないだろう。何回言ったらわかるんだ」。太った警官が横柄な口調でどなりつける。
「商売ではありません。教会に寄付するためです」とおばちゃんは頭を下げたが、意地悪そうな警官は「法律は守ってもらわんとな」と言うなり屋台を蹴りあげた。
「乱暴はやめてよ」。隠れて見えなかったが、後ろで屋台を押していた若い女が飛び出てきた。
「この方は韓国から労働者の支援に来られている立派な宣教師さんなんだから」
気勢をそがれた警官は「何が宣教師だ、殺人犯をかくまってるくせに」と捨て台詞を残してパトカーに戻っていった。よく見ると女は赤ん坊を背負っている。
「この人はね、好江さんといって元ホームレスで路上生活をしていたんです。妊娠しているとわかり教会に連れてきたの」
教会は裏通りのビルの5階にあった。あたりはドヤ街と呼ばれる簡易宿泊所が密集している。港や建設現場で働く日雇い労働者が泊まるところだが、日本人だけではなく韓国人やベトナム人、日系ブラジル人も暮らしていた。
おばちゃん宣教師は、この街で炊き出しと路傍伝道をするため、教会を作ったとのだという。自分と同じ韓国人が異国の地で献身的に生きていることに児美は心を打たれた。自分はどうだろうか。貧しい暮らしが嫌で故郷を捨てた。日本の大学に留学、看護師になり職場で知り合った日本人医師と結婚した。春琴を有名な小学校へ入れ、ハイソサエティに仲間入りしようとしている。自分のことしか考えない人間なのではないか。
教会のドアを開けた途端、強烈な異臭が鼻を突いた。同時に教会を埋めた何十人という男たちの黒い塊が視界に飛び込んできた。何かに飢えているぎらついた目が一斉にこちらに向けられた。何日も風呂に入っていない異様な臭いはくさいというより、鋭い痛みとなって目やのどを刺激してくる。児美は一瞬、むせて涙がにじんだ。
「自暴自棄になり自殺を考えているような人がいるなら、主よ、その考えを捨てさせてください。皆さん、まだまだ人生これからですよ。ハレルヤ!」と路傍伝道で有名だという男性牧師が叫んでいる。
一斉に「ハレルヤ! アーメン」の大合唱である。突然、ひとりの男が立ち上がった。がっしりした身体つきで、目つきが鋭い。頬に切り傷がある。おばちゃん宣教師が「乱暴者だったのよ、昔は。元ヤクザだから」と紹介する。「ヤクザ同士のいざこざで2度も相手の親分を刺し、殺人を含む前科8犯で人生の大半が刑務所暮らしでした」。
男は少し照れながら「刑期を終え網走刑務所を出所したものの、敵のヤクザに追われて逃げるうちにさ、この近くでホームレスになったんだ。自殺しようと海に飛び込んだが死にきれず、ここで炊き出しの列に並んだところ、宣教師のおばちゃんに声をかけられたのが入信のきっかけだった。クリスチャンになって人生が後戻りしなくなったね」と神妙に語った。殺人犯をかくまっている、とさっき警官が言ったのはこの男のことなのだ。
何人かの話が続いたが、春琴のことが心配で彼らの話はほとんど耳に入ってこなかった。気がつくと、おばちゃんが隣に座っていた。
「児美さん、どうしたの?顔色が悪いよ」
この人なら信頼できる、そう思って児美は、娘の春琴が3日前から行方不明になっていることを打ち明けた。
「実はこの駅の近くで小さな女の子が車イスを押していたという目撃証言があるんです。それで、何か手がかりがないかと、私、駅前を歩いていたんです」
「そう、それは心配ね。わかったわ。探してみましょう。ドヤの人たちは、独自の情報網を持っているから」
翌日、宣教師から電話が入った。「見つかりましたよ、お嬢さん」。驚いて教会に駆けつけると、春琴は元気いっぱいで、「車イスが動かなくて困っていたおじいちゃんを助けてあげたの」と屈託がない。
宣教師が「源さんという足が悪くて認知症のおじいちゃんがいるの。車いすが駅前広場の穴ぼこにはまって困っているところを春琴ちゃんに助けられ、家まで送ってもらったというわけ」と説明してくれた。「それが家に着いた途端、ぐったりしてしまって。買い物や掃除を春琴ちゃんが手伝ってくれたみたい。スーパーで小さな女の子がひとりで買い物をしているのを不審に思った好江さんが見つけてくれたの」
「まあ、そうなんですか」
「源さん、悪い人じゃないんだけど認知症だからね、ごめんなさいね」とおばちゃん宣教師。
児美はうなずき、春琴を抱き締めた。「春琴、なかなか帰ってこないから心配したけど、あなたやさしいのね。いいことしたわね」。
「うん、ママ。連絡しなくてごめんね。源さんのことが心配で部屋から離れられなかったの。今日こそは帰るつもりだったんだ」
おばちゃんと好江がキムチの大きな袋を渡しながら見送ってくれた。
「春琴ちゃん、また遊びにおいで」
「はい、源さんによろしくね。バイバイ」
警察に連絡した。
「娘さんが保護された? わかりました。で、どこにいたのか記憶がないと。それは困りましたね。まあ、無事に発見されてよかった。悪いヤツ、多いからね。気をつけてくださいよ」
あの時の警官の声によく似ていた。
(完)

※登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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