ボクが犬語をしゃべっていた頃:こころざしの譜(21)

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(21)

あのころのことを考えると本当に嘘みたいだ。ボクにあんな特別な才能が備わっていたなんて。
あれは、そう、大学に入ってすぐ、オリエンテーション・キャンプで丹沢のちょっとした山に登った時のことだ。直前の大雨でえぐられた崖の亀裂に足をとられあっと言う間もなく転落してしまった。かなり長い距離を一気にすべり落ち、ボクは気を失った。目を開けた時、周囲は既に暗闇に包まれていた。目をこらすと、不気味な二対の光があちこちから睨んでいる。
「大丈夫かしら」「ケガしてないかな」とひそひそ話す声がする。ずいぶん小柄な人だと思ったら、人間じゃない。犬だった。おい、まさか、この犬がしゃべっているんじゃないだろうな。そう独り言を漏らしたら、「犬だってしゃべるわよ」。ボクは頭を叩いてみた、トントンと軽く。落ちた衝撃で何か異変が起きたらしい。
それから3年。犬語がわかるということは忘れかけていた。しかし、ちょっとした偶然からボクの隠された能力が発揮されることになった。卒業を控え、NPOが運営する動物愛護センターでボランティアを始めたのだ。犬舎の掃除をしていると雑談の声が耳に入ってきた。それで自分の特別な能力を思い出したのだ。
「あたいは猟犬、こうみえても鹿や猪を追いかけまわしていたのよ。それがさ、野犬用に仕掛けられた罠に捕まっちゃってね」と甲高い声で話しているのはヘップバーン似が自慢のぶち犬だ。隣のいかついドーベルマンが「俺は散歩の時、リードを引っ張りすぎてジイちゃんが転んで大けが。そいでもって追放さ」とうなだれている。
このセンターには県の施設で殺処分されそうになったのをNPOに助け出された犬もいれば、飼い主が病気や高齢で世話しきれなくなった犬もいる。中でスター的な存在なのが、芝犬の宙太郎という災害救助犬だ。ちょっと前の水害で、土砂崩れの泥に埋まっていた人を発見したというので、マスコミの寵児となり気位が高かった。年上の救助犬見習いであるコリーのハルに対し、先輩風を吹かせていた。
「だからよ、ハル、おめえは知らないだろうが、俺たち犬の嗅覚は人間の1万倍も鋭いんだぜ。テーブルの上にカレーライスがのってるとしようか。隣のサラダの匂い、その横の花瓶の花の匂いもかぎ分けないと、一人前の救助犬にはなれないんだ」
ハルはびびって「そんな難しいこと、わしには無理じゃ」と下を向いてしまった。しかし、ボクは宙太郎が殺処分場で殺されそうになり、おしっこを漏らしたというエピソードを知っていたので、思わず「ハル、慣れれば大丈夫だよ」と口をはさんでしまった。
口をとがらせた宙太郎がいぶかしげに「何だ、あんた、人間のくせに犬語がわかるのか」と睨みつけてきた。
「うん、名前に犬が付くんでね。犬伏っていうんだ」
「犬伏か。俺のこと、ニュースで見たかい」
「ああ、泥に埋まっていた人間を探し当てたんだろ」
「ところがさ。その人、既に心肺停止状態だったんだよ。次は、生存者をなんとか探しださなくちゃ」宙太郎は心の引っかかりを打ち明けた。
チャンスは意外に早くやってきた。その日、朝飯を食べていたら、オレンジのユニフォームに身を固めた救助部隊があわただしく荷物を車に運び始めた。さっきのニュースで、西日本の地震のニュースをやっていたから、そこへ行くのだろう。犬舎に降りると、宙太郎とハルがスタンバイしていた。
「お早う、犬伏。やっぱり、本番は緊張するな」と宙太郎。
「わしは初出動なんじゃ」ハルは武者震いしている。
そこにハンドラーの駒崎が現れた。あっ、この人も動物の名前だ、馬語を話すのかな、とひとりで笑ってしまった。
「犬伏君って犬の気持ちがわかるんだって?」
「はい、信じてもらえないでしょうが犬語が理解できるので」。駒崎が一瞬固まったのがわかった。
「ふうん。じゃあ、よければ今から一緒に現場にいってくれないか。手伝ってほしいんだ」
現場はたくさんの家やお店、電柱などが倒れ、道路がひび割れていた。駒崎が宙太郎、ボクがハルのリードを持ってガレキの間を走った。大木に押しつぶされた家の前で宙太郎が立ち止まった。
「ちょっと待ってくれよ。ほこりや土の匂いに混じってわずかに人間の匂いがするぞ」と宙太郎。
ハルが「ミルク臭いな。赤ちゃんもいるみたいだ。急いで」
それを駒崎に伝えると、怪訝そうな表情をしながらも、救助部隊のメンバーに作業指示を出してくれた。横たわった大木をチェーンソーで切り、ガレキをスコップで取り除いて家の中へ入っていく。隊員の「要救助者発見」という鋭い声が響いた。ヤッター!と、宙太郎とハルが叫んだ。間もなく、赤ちゃんを抱いたお母さんが、埃を払いながら現れた。
「ありがとう。私よりこの子を早く」
その時、メディアが押しかけてきてインタビューが始まった。駒崎が「犬に直接質問したらどうですか」と冗談っぽく言った。笑い声が起こったが、テレビ局が「いいですね」と悪乗りしたため、本当に犬の記者会見が始まった。もちろん通訳はボクである。
「生存者がよくわかりましたね、宙太郎さん」とマイクが向けられる。
「犬の嗅覚は鋭いのですが現場にはいろんな匂いが混じっているので集中力が大事です。きょうは生存者発見なので、うれしいです。赤ちゃんはミルクの匂いを嗅ぎ出したハルの功績です。なあハル」と自慢気な宙太郎の声を訳す。
「初めての出動なんで、緊張しちゃって。でもいい仕事ができて満足です。お母さんの笑顔が忘れられません。これからも全力をつくします。NPOへの応援と寄付をよろしくお願いします」。これはハルである。初めはおもしろがっていたテレビ局や新聞社の記者たちも顔を見合わせ不思議そうな顔をしている。
その時だった。大きな余震が起きた。傾いていた家から瓦がばらばらと落ち、そのうちの一枚がボクの頭を直撃した。気がつくとボクは病院のベッドにいた。脇に付き添っている宙太郎とハルがワンワン、キャンキャンと盛んに吠えている。
犬語をなんとか聞き分けようと努力したが、無駄だった。うるさいだけで、何を言っているのかまったく理解できなかった。

(完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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