■南蛮に詳しい葡萄酒担当が「がらみ」に黒大豆添加

上田太郎右衛門は忠利のために薬を調合したり、医療用のアヘンも製造しているが、特異な人物で、いわば専任の「葡萄酒製造」担当だったと思われる。黄飯(パエリャか)など南蛮料理に通じ、南蛮人から葡萄酒製造の技術を習得していた可能性もある。「がらみ」(えびづるの古名)を原料に、知行地の豊前国仲津郡大村(現在の福岡県京都郡みやこ町犀川大村地区)で葡萄酒造りに当たっていた。

同年9月には小倉から葡萄酒造りの道具が運ばれる。奉書(藩主の命令を記録したもの)=写真=では、「去年、江戸に送ったのと同じ量を今年も送れ」と記されているので、前年、つまり、1627年(寛永4年)にも葡萄酒造りが行われたことは確実である。

1629年(寛永6年)にも、上田太郎右衛門は葡萄酒造りを命じられ、仲津郡に葡萄酒用樽二個が運び込まれた。その際「材料の黒大豆が来ていない」と言われたとの記録が残っている。この点は特に注目に価する。これこそが、この葡萄酒が醸造酒、つまりワインだったという根拠になっているからだ。

がらみは糖分が少ない。このため論文は「黒大豆の酵母を添加して発酵を助けたのであろう」として、混成酒ではなく間違いなく醸造酒だったと結論づけている。江戸期の葡萄酒は、焼酎や日本酒にブドウや果汁を漬け込んだ混成酒だとされてきた。これだとブドウそのものは発酵していない。小倉藩の葡萄酒に関するこの論文はこの常識を覆す貴重な記録であると言える。

葡萄酒二樽を製造し小倉に運ぶまでに2週間ほどだったとあり、これはワインにしては短すぎるのではとの見方もあるが、「葡萄のアルコール発酵だけなら、早ければ5-7日で済むということなので、それだけの期間で醸造を仕上げるのは可能」と後藤氏は述べている。

■キリシタン禁教令強化で製造中止か

1631年(寛永8年)になると、葡萄酒製造の史料はプッツリ見られなくなる。長崎の御買い物奉行衆あてに薬用に輸入葡萄酒を買うよう依頼した史料が残るのみである。翌年以降も何度か同様の葡萄酒買い付けを依頼しており、完全に輸入葡萄酒に依存するようになる。

1638年(寛永15年)、小倉から肥後に移封していた忠利は前年に体を壊し鎌倉で養生中だったが、島原・天草の乱の知らせを聞き島原に出陣した。現地の原城で熊本から葡萄酒を取り寄せ薬として用いている。よほど効能があったのだろう。

1639年(寛永16年)7月、幕府はキリシタン禁止令の中で、がれうた船(ポルトガル船)の入港禁止のお触れを出す。島原・天草の一揆を経て、幕府のキリシタン禁教令は一段と強化され、ついにポルトガル船の来航禁止にいたった。これで鎖国が完成したことになる。

結局、細川家が小倉で葡萄酒を造っていたのは1627年から4年間。忠利の薬用、贈答用にとの強い要望で輸入物にも力をいれたが、幕府のキリシタン禁教令の強化で不可能になった。

1638年(寛永15年)の書状で忠利は「葡萄酒はキリシタンを勧めるときに要る酒であるというので、それを心配して、周囲では一切売買がない」と記している。

「幕府に対し常に御奉公を心がけている模範的な大名であった忠利が、御禁制のキリシタンの飲み物であるという認識のもとに葡萄酒の製造を続けるはずがなかった」というのが、後藤氏の分析である。

これまでの説明でわかるように、後藤氏の論文は、貴重な史料を駆使して論理的に書かれており、極めて上質な研究書だといえる。論旨も明解で、小倉藩細川家の製造した葡萄酒がワインであると断定している。

■「他藩でもワイン製造の可能性」

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