「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(49)

 ポツリ、ポツリと雨が落ちてきた。鮎未は傘をさそうとして神田駅前のポスターにふと足を止めた。濃い色のワインボトルは注ぐ時、長期熟成でたまる澱をせき止めるため肩が張っておりボルドー産だとわかる。これが、あのラフィット・ロートシルトか。「初来日ドメーヌ・バロン・ド・ロートシルトのディレクター~スペシャルディナーをご一緒に」と派手な文字が躍る。参加費がひとり7万円とある。ワイン好きの鮎未は思わずため息が出た。
 鮎未は軽度の知的障害があり、NPOが運営するお菓子屋さんでクッキーを焼いている。難しい仕事はできないが、純朴で愛嬌があるので皆にかわいがられている。
 ちょっとした縁でそのNPOがスリランカに支部を設立することになった。現地の障害者にスパイスクッキーづくりの指導をするという大役が鮎未に回ってきたのはちょうど1年前のことだった。
 学校の勉強にもついていけない自分が人に何か教えるなんてとても、と緊張したが、何とかうまくこなした。スリランカで驚いたことのひとつはカレーのおいしさだった。鮎未は嗅覚が人一倍敏感だ。ココナツミルクやクローブ、シナモンといったスパイスが入ったカレーのおいしいことと言ったら。クローブやシナモンは鮎未の大好きなスパイスクッキーの原料と重なる。この香りが鮎未は大好きだった。
 神保町でスリランカ・カレーの店を開いているスリランカ人難民を紹介された。そこで毎週金曜の夕方からアルバイトをすることにしたのもカレー好きがこうじたからである。
 コンチワーと勢いよくドアを開けると店長がテーブルに座って頭を抱えている。
「店長、どうしたんですか?」
「やあ、鮎未ちゃん。私、困ったよ。ランチの予約、学生グループが急にキャンセルしたね」
「えーっ、それひどい。何人分」
「20人前だよ」
「そんなあ。料金取ってやろうよ」
「それがさ、いくら電話しても通じないね。きっと携帯を切ってるよ。今夜は天気が悪くて客来ない。カレー、捨てるしかないね」
「仕方ないか。でも、ちょっと待って。こんなおもしろいサービスがあるの知ってる?」

挿絵・井上文香
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