桐の小箱と伎楽面

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(58)

 下町に店を構える桐屋野澤堂は江戸時代から続く老舗の箪笥問屋である。桐箪笥の製造・販売が柱だが、さすがにそれだけでは食べていかれず古い箪笥の修理やリフォームにも手を染めていた。時代に合わせ取っ手の金具を廃したモダンなタンスを作るところが多いなか、頑なに昔ながらの伝統的な箪笥やチェストにこだわっており、玄人筋の間ではさすが野澤堂さんは違うと評判を呼んでいた。
 主人の七代目野澤市兵衛はこの日、奈良から帰ったばかりだったが、それでも夜遅く作業台に向かっていた。正倉院で見た伎楽面の印象が薄れないうちに彫り挑戦したいと思ったのである。

挿絵・井上文香

 伎楽は中国江南地方の呉から日本に伝わった仮面舞踏劇で、ユーモラスな所作を伴うパントマイムであったようだ。中央アジアの発祥でシルクロードを経て呉で完成されたものらしく、面は中国人ではなくアーリア系の容貌が色濃かった。正倉院には天平勝宝4年の東大寺大仏開眼法要の際に使われた面も残っている。市兵衛が気に入ったのは舞台では最後の方に登場する酔胡従という酔っ払いである。伎楽に登場する23面のうち8面がこれで、大きく高い鼻、太い眉毛など、その名の通りペルシャ人を表している。酔胡王とともに酒宴を盛り上げるのだが、道化に特有のもの悲しさが心を打つ。
 昨年、病院で腹に腫瘍があると告げられ明日のない今を意識するようになった。思いついて伝統工芸品を見て回る旅に出たが、強く引かれたのが伎楽面であった。乾漆造だが、桐で彫ってみた。これが思った以上に難しい。正倉院や国立博物館に足しげく通うはめになったのはそのせいである。
「あら、また、伎楽面彫りですか。お電話ですけど」妻の真紀は後妻で、苦しい家計をやりくりしてくれていた。
 先の台風で伝統工芸品を収めている展示館が被害を受けた。何とか改修できないかと仲間が奔走している。生活様式の変化で桐製品は斜陽の一途でどこも経営が楽ではない。力になりたいとは思うものの良い知恵が浮かばなかった。
「ああ、出るよ」また、その話だろうと思い込んでいたが、当てが外れた。
「野澤堂さん、ちょっと前に納入してもらった桐の箱のことなんだが」。庭の灯りが紅葉し始めた木々をぼんやり照らし出している。金木犀の芳香が漂う。注文を受け届けたのは確か桜の季節だった。「実はまだ桐の箱の在庫が残っている。事情があって引き取ってもらいたいんだ、急いで」
 知り合いを通して桐の小箱を頼んできたのは大手企業の社長室長で、斎藤という男だった。この電話と同じ人物のはずだが、この夜は狼狽の向こうに強欲の生臭さが匂った。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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