ミャンマーの僻地・無医村「ミャウンミャ」から③

「なぜ、名知さんは医師なのに農業をしているのですか?」よく、こんな質問を受けます。答えはシンプルで「医療だけでは人の命は救えないから」です。2002年にはじめて国際医療に従事したとき、私は医療の絶対的な力を信じていました。しかし程なくしてその信念は打ち砕かれ、自分の力がいかに小さなものかを痛感しました。(NPO法人ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会「MFCG」代表理事・医師・気功師・名知仁子)

このカレン族女性は名知さんの農業支援によって知識と技術を身につけ、有機野菜農園を運営し自活できるようになった(写真:名知仁子)

名知仁子(なち・さとこ)
新潟県出身。1988年、獨協医科大学卒業。「国境なき医師団」でミャンマー・カレン族やロヒンギャ族に対する医療支援、外務省ODA団体「Japan Platform」ではイラク戦争で難民となったクルド人への難民緊急援助などを行う。2008年にMFCGの前身となる任意団体「ミャンマー クリニック菜園開設基金」を設立。15年ミャンマーに移住。

■カレン族の難民キャンプで「医療だけ」の限界を感じる

最初の赴任地はミャンマーとタイの国境沿いにあるカレン族の難民キャンプ。地雷を踏んで手足を失った人や、ビタミンK欠乏による脳内出血を起こした赤ちゃん、栄養不良で骨と皮だけになった人たちなど、約3万5000人を診ました。

必死に治療をすると、最初は泣いても涙さえ出なかった赤ちゃんが笑うようになります。2〜3カ月すると眼に光が灯り、おっぱいが吸えるようになり、もともと暮らしていたジャングルに帰ります。しかし現実は厳しく、その後に生き延びられたかは不明です。

2004年から05年には、ミャンマーのラッカイン州で人道医療支援に加わりました、2〜3カ月の栄養不良改善プログラムによって、赤ちゃんもお母さんも元気になって村に帰りますが、また栄養不良になって戻ってきます。

再び治療を施すと元気になるものの、また栄養不良になって戻ってくるという繰り返しに医療の限界を感じ「なぜ彼らを治せないのだろうか」という自問自答が続きました。人の命を救えない医療とは何なのかと。

思い当たった答えは2つありました。ひとつは村に食べ物がないからで、もうひとつは栄養についての知識がないからだったのです。「食べ物がなければ作ればいいし、健康に生きるために必要な知識を学ぶ機会を提供すればいい」と、取り組むべき課題がクリアになりました。

こうして立ち上げた「ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)」は、医療と菜園の二本柱で活動することになりました。活動を始めてからは、この2つを広げることこそが、途上国で人間が生き延びて健康になれる基本的な要素だという確信が深まっていきました。

■文字を読めなかった女性が奮起し菜園の経営者に

村人が自分たちで有機栽培の野菜を作り、自活できるようになる。この構想を本当に自分ができるのかは未知数でしたが「命を救えるならばやる」が私の持論です。

ミャンマーにいるJICA(国際協力機構)の農業・水産部門の専門家に相談したり、日本で農村指導者を育成する「アジア学院」(栃木・那須塩原市)を訪問したりして、自分なりに学びを深めました。

2015年9月には、長年にわたりミャンマーで農業支援をしている九州・佐賀のNGO「地球市民の会(TPA)」の協力を得て、現在の拠点となるミャウンミャで活動を始めました。

最初に農業指導をしたのは、41歳のカレン族の女性でした。彼女は10年間ひとりで無農薬野菜を栽培し、家族を養うために売っていました。しかし知識がなかったため野菜をうまく育てられず、貧しい環境で小学校を途中で辞めざるを得なかったため文字も読めませんでした。

彼女は猛勉強をして本を読めるようになり、菜園を2倍以上に拡大し、収穫量を3倍に増やし、野菜は甘く品質が向上しました。現在は近隣の村から、彼女の野菜を買いに来る村人もいるほどです。

彼女は「私ははじめて夢を持ちました。それは、学んだことを他の人に伝えることです」と語ります。最初は「もらう幸せ」だったのが「できる幸せ」になり「与える幸せ」に変わっていく。人間の可能性は無限であることを、私は現地の人から学んでいます。

現在は先行して取り組みを行うモデル村もでき、有機野菜の栽培プロジェクトも広がりを見せています。これからもMFCGの挑戦は続きます。