記事のポイント
- 富士通では、聴覚障がい当事者の社員自身がアクセシビリティ向上を牽引する
- こうした取り組みは、同社の製品・サービス開発にも活かされているという
- イノベーション創出やプロダクト開発にどうつながっているのか、話を聞いた
富士通、当事者と共に誰もが楽しめるテクノロジー開発(上)
ーー当事者が変革を牽引する組織づくり
グローバル企業にとって、多様性の推進は経営戦略上の重要課題となっています。特に近年、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の拡大により、企業の包摂性(インクルージョン)への取り組みは投資判断の重要な評価軸となっています。このような社会的要請の高まりを受け、多くの企業がダイバーシティ&インクルージョンを掲げるものの、実際の組織運営や製品開発において、障がい者の視点を真に反映させている企業は限定的です。中でも、アクセシビリティやインクルーシブデザインの領域では、単なるCSR活動を超えた、イノベーション創出の源泉としての価値が注目されています。
富士通では、聴覚障がい当事者である社員自身が組織のアクセシビリティ向上を牽引し、それが製品・サービス開発にも活かされています。これらの取り組みは、障がい者のリプレゼンテーション(代表性・当事者が主体的に参画し、その声や視点が適切に反映されること)の実現や、企業が目指すべきインクルーシブな組織文化のモデルケースとして、大きな注目を集めています。
今回は、富士通ブランドエクスペリエンス部でブランド戦略を担当する聴覚障がい当事者の松田善機さんと、インクルーシブデザイン開発を手がけるコンバージングテクノロジー研究所の本多達也さんを中心に、障がい者のリプレゼンテーション向上によるイノベーション創出からプロダクト開発、さらには社会変革への展望まで、幅広い取り組みについてお話を伺いました。(聞き手=NPO法人インフォメーションギャップバスター理事長・伊藤芳浩)

■機会ロスをなくすための技術的挑戦
松田さんは富士通に入社後、会議参加における情報保障の課題に直面しました。
「入社当初は聴覚障がいのある先輩方がたくさんいたので、情報保障について準備していただきました。ただ、手話通訳や要約筆記を依頼するには2、3人のサポートが必要なため、部屋の準備やノートパソコンの用意が大変でした。また、突発的な会議があるときにすぐ用意することが困難なこともありました」
さらに、リアルタイムでの意見交換における機会ロスの問題も深刻でした。
「PC要約筆記は時間差が生じるんです。聞こえる人たちが議論している時に話したいと思っても、発言するタイミングを失ってしまい、活躍する機会を失ってしまうことがありました。会議に参加する意味があるのかと感じることもありました」
このような状況は、個人のキャリア形成に影響するだけでなく、組織にとっても貴重な人材の能力を活用しきれない機会損失につながります。聴覚障がいのある優秀な人材が、コミュニケーション環境の制約により本来の力を発揮できないことは、企業の競争力低下を意味します。
これらの課題を解決するため、松田さんは音声認識を使ったツールの開発に取り組みました。この取り組みは、個別の要請に応じて行う「合理的配慮」ではなく、誰もが平等に参加できる環境を予め整備する「事前的環境整備」の考え方に基づいています。
「音声認識を使ったツールを開発して、それが実用化されました。15年前から始めて、当初は精度が悪かったのですが、少しずつフィードバックを重ねて改善し、今では一人で会議に参加できるようになっています」
この技術により、最も重要な変化が生まれました。
「以前は、PC要約筆記など、サポートの方のスケジュールに合わせる必要がありましたが、今はその制約がなくなりました。これまでは、相手の発言を受け取るのに要約筆記に頼っていたため、内容の解釈や責任の所在で『言った、言わない』といった問題が起きることもありました。しかし、このツールを使うことで、相手の発言を私自身が直接受け止め、疑問があればすぐに質問できるようになりました。その内容に責任を持てるようになったことが、一番うれしいことです。もちろん、私一人で全てをカバーできるわけではありません。弊部の日本・海外メンバーが私の特性を理解し、積極的に協力してくれる環境があるからこそ、このような働き方が可能になっています 」
この技術革新は、合理的配慮から事前的環境整備への転換を象徴する成果といえます。個別対応から標準化されたソリューションへの移行により、コスト効率性も向上し、他の聴覚障がいのある社員にも恩恵をもたらしました。さらに、このツールは聞こえる社員にとっても、議事録作成の効率化や多言語会議での理解促進など、副次的な価値を提供しています。
■当事者起点のアクセシビリティ戦略の組織的インパクト
松田さんは富士通のアクセシビリティ指針の策定にも携わりました。
「富士通ではこれまでもアクセシビリティへの取り組みを進めていましたが、部門ごとの対応レベルに差異が見られました。そこで、ブランド戦略の一環として、全社的に一貫したアクセシビリティ指針を策定する必要がありました」
「特に海外では、アクセシビリティに関する法規制が厳格化しています。そこで、ブランドの海外チームと日本チームとで法規制を考慮したデザインや対応のあり方について密に連携し、議論を重ねていきました。その結果、コミュニケーション全般にわたるグローバルなアクセシビリティ指針を策定することができました」
欧米のアクセシビリティに関する法的規制の例として、アメリカではADA法(障害を持つアメリカ人法)があります。企業のWebサイトやデジタルサービスにアクセシビリティ対応が義務付けられ、違反時には訴訟リスクが生じます。EUでは欧州アクセシビリティ法が2025年から全面施行され、デジタル製品・サービスの包括的なアクセシビリティ対応が法的要件となっています。
「世界ではアクセシビリティへの対応が不十分な場合、罰則が科せられたり、新たな訴訟に発展したりするケースも出てきています。一方、日本ではまだそうした動きは顕在化していません。そのためアクセシビリティに対する認識は海外と日本で温度差があり、『必要性は理解しているものの、法的な義務ではない』という認識がありました」
このような状況下で、松田さんのような聴覚障がい当事者が社内のアクセシビリティ推進を主導することは、単なる技術的な課題解決を超えた重要な意味を持っています。それは、障がい者が「支援を受ける側」ではなく、「組織の変革をリードする主体」として位置づけられることを示しているからです。これこそが、真の障がい者リプレゼンテーションの実現といえるでしょう。
重要なのは、このような事前的環境整備により、松田さんが即戦力として組織に貢献できるようになったことです。会社が適切な環境を整備することで、障がいのある社員の能力が最大限発揮され、結果として組織全体の競争力向上につながっています。
このような背景から、富士通は全社員向けにアクセシビリティに関するeラーニングを実施し、事前的環境整備の考え方と実践方法の社内浸透を図りました。
このeラーニングでは、障がいの有無に関わらず誰もが使いやすい製品・サービスのあり方を学習できるよう、ディスレクシアや視覚・聴覚障がいの観点を取り入れた実例を豊富に紹介しています。社内テンプレートやツールも併せて活用することで、実践に直結する知識の提供を実現し、社員一人ひとりの行動変容を促して企業文化として根付かせることを目指しています。
「アクセシビリティの取り組みは専門家にお願いするのではなく、私たち自身が主体的に推進すべきであるという点を伝えることが重要です。『アクセシビリティ』と聞くと専門的で自分にはできないと思う人が多いので、『これを理解すれば、誰でも取り組めるようになる』という案内が必要です。アクセシビリティを自分ごととして捉える意識が一番大切だと思います」
このような意識変革の取り組みは、単なる知識の習得を超えた行動変容を促しました。社員一人ひとりが日常業務の中でアクセシビリティを考慮するようになり、資料作成時の色使いやフォント選択、会議運営の方法など、具体的な業務プロセスに変化が現れています。そして、松田さんの経験は、担当している企業ブランドの視覚的なデザイン改善にも活かされています。
「富士通はこれまで『赤』のコーポレートカラーが強く印象付けられていましたが、多様性を表すために、多様なカラーパレットを導入しています。またアクセシビリティ観点でもシアン、マゼンタ、エメラルドといった色を選べるため、お客様の視認性やアクセシビリティに配慮した色の表現が可能となり、個々の顧客特性に合わせた最適なコミュニケーションを可能にしました」
「富士通では、提案書やWebなどあらゆるコミュニケーションツールにて使用する企業独自のフォントを指定しています 。以前のフォントについては、一部の方々から『読みにくい』というご意見をいただくことがありました。特に、ディスレクシア(読み書き障害)をお持ちの方々にとっては、判読が困難であるとの指摘もありました。そこでディスレクシアの専門家に相談して、フォントをより多くの方々にとって読みやすいフォントに改善しました」
「富士通が発行しており多くの方にご覧いただいている『Fujitsu Technology and Service Vision』や『富士通統合レポート』ではPDFのアクセシビリティチェック機能を可能な限り満たすような取り組みも推進しています。ぜひ、障害のある方々にも読んでいただきたいと思います」
Fujitsu Technology and Service Vision
富士通統合レポート
重要なのは、特定の人だけにこだわらないバランスの取れたアプローチです。
「特定の個人に最適化されたデザインは、かえって他の利用者にとって使いにくいものとなる可能性があります。そのため、私たちは専門家や大学の先生方にご協力いただき、密なコミュニケーションを通じて知見を深めました。できるだけ多くの方々が快適に利用できるデザイン、開発を心がけています」
■真のインクルージョンが生み出すイノベーション
松田さんの個人的な課題解決から始まった音声認識技術の導入は、富士通全体のアクセシビリティ向上につながりました。一人の社員の困りごとが、組織全体の変革の起点となり、さらにはグローバル企業としての責任を果たすための戦略的取り組みへと発展していったのです。
この事例が示すのは、障がい当事者が単に「配慮される存在」ではなく、組織のイノベーションを牽引する「変革のエージェント」として機能することの重要性です。松田さんが主導したアクセシビリティガイドラインの策定やeラーニングの展開は、まさに当事者の視点と経験が組織全体の成長につながることを実証しています。
これは、障がい者雇用における法定雇用率の達成という「数合わせ」から「戦略的人材活用」への転換モデルを示しています。聴覚障がい当事者としての体験と専門知識を組み合わせることで、個人の課題解決が組織変革につながり、最終的には社会課題の解決に貢献する──このような価値創造のサイクルこそが、真のインクルーシブな組織が生み出すイノベーションの本質です。
また、この取り組みが示すのは、アクセシビリティ対応が「コスト」ではなく「投資」であるという認識の重要性です。適切な環境整備により、障がいのある社員が持つ独自の視点や創造性が組織の競争優位性となり、新たな市場機会の発見や顧客価値の向上につながっています。
※次回「富士通、当事者と共に誰もが楽しめるテクノロジー開発(中)」は、8月18日に公開予定です