この2‐3年、日本では「CSRかCSVか」という議論が続いてきました。いわく、「CSRはもう古い、これからはCSVだ」という一部の論調について、多くの専門家から意義が唱えられ、「CSRを否定するのはおかしい」との反論がなされました。
(オルタナ編集長=森 摂)
例えば、大阪の非営利団体「ヒューライツ大阪」はそのウェブサイトで下記のように書いています。
マイケル・ポーター教授が2011年に提唱したCSV(Creating Shared Value 共有価値の創造)が日本で紹介されてから、「CSRからCSVへ」、「CSR はもう古い、これからはCSV だ」といった論調が見られるようになってきました。CSVそれ自体というよりも、そうした日本でのとり上げられ方と、本来のCSR(企業の社会的責任)への影響に懸念をいだいた企業、NPO/NGO、消費者団体、シンクタンクなど諸セクターの有志により、研究会として「CSRとCSVを考える会」が2013年夏から4回にわたって開催され、議論が積み重ねられました。そのアウトプットとして、ISO26000(社会的責任の手引き)や国連ビジネスと人権に関する指導原則の観点から一定の基準となる考え方がまとめられたものが「CSRとCSVに関する原則」です。
(参照ホームページ:CSRとCSVの原則ーヒューライツ大阪
この原則には筆者(森)も署名しましたが、専門家の議論はなかなか一般のビジネスパーソンには分りづらい一面があるのも事実です。★
そこで、10月に出版した拙著「未来に選ばれる会社ーCSRから始まるソーシャル・ブランディング」の中で、CSRとCSVの定義について、改めて書き記しました。
それが、「CSRはルール、CSVは競技」です。
この比喩は、オリンピックの競技を念頭に置いています。第一義的には、「CSVはオリンピックの競技。ルール(CSR)を外れた競技はあり得ない」というものですが、もう一つの意味を込めました。
それは、ルールとしてのCSRは、オリンピック競技のルールと同じく国際的に決められ、しかも刻々と変化していくことに留意しなければならないということです。
1972年の札幌冬季五輪のジャンプ競技で日本人が金銀銅のメダルを独占した後、スキー板の規定が変わり、しばらく日本人が勝てなくなったことがありました。水泳のバサロ泳法も当初は無制限に認められていたものの、その後、規制が掛かりました。
日本人には「一度決めたルールは変えないのが公正」という心情があります。しかし、国際ルールは、時には猫の目のように変わっていったり、突然新しいルールができたりします。
例えば、この数年、自動車業界や電機業界を揺るがせた「紛争鉱物問題」。これは米国のSEC(証券取引委員会)が、いわゆるドッド・フランク法に基づき、米国の証券取引所の上場企業と取引先に対して、紛争鉱物を使用しているかどうか(トレーサビリティ)を明らかにするように要請した問題です。
当時の日本企業はまさに「寝耳に水」の状況でした。紛争鉱物の多くはアフリカ・コンゴを産地にしていたため、各社ともトレーサビリティの把握に苦労していました。
今年に入ってからは、「紛争コピー用紙」の問題も日本で知られるようになってきました。これは、特にインドネシアの熱帯雨林伐採に伴い、「ヘイズ」(煙害)がマレーシアやシンガポールに深刻な環境汚染をもたらしているのです。熱帯雨林伐採の筆頭格であるAPP社は、アジアで不買運動も起きています。
このように、常に新しい社会問題が起き、企業がそれに対応しながら、自社の社会的活動を進めていくことが、「ルールと競技」の関係に例えられるのではないか、と考えています。