アラスカから気候戦士に名乗り(希代 準郎)

◆「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(36)

「父さん、どうして皆、この島を出ていくのかなあ。僕はいやだな」
 さらさらと澄んだ水が小石の上を走るのに目をやりながらウルヴァが尋ねた。気まずい沈黙を釣り糸の緊張が救った。おっ、かかったぞ、日焼けした父があわてて竿を立てると光の中で虹色の魚体がはねた。バターで焼いて二人で分けた。身をほぐして口に運びながら父はボソッと言葉を吐き出した。
「この島には未来がねえ。永久凍土が溶け、地盤が沈下しいている。この川だって強度を失った川岸を水が勢いよく削り取っている。出ていくしかないんだよ」
 汚れた食器は川ですすぐのではなく、川の水を汲んで河原で洗う。魚の骨は放置せず、土の中に埋める決まりだ。スコップを取り出そうとした時、パトロールの太った監視人が近づいてきた。
「村人が逃げ出し始めているというのに、環境保護かい。律儀なことだ」
 にやにやしながら皿の上のニジマスの骨に目を落とし、「これは25センチ未満だ。違反だぞ」
「あんたこそ、もう見回りはやめたほうがいい。人間がいなくなりゃ、ニジマスの天下だ。保護しなくてもぐんぐん育つさ」
「そうかもしれない。保護すべきは魚より人間だ。私も仕事の変え時かもしれん」
 「おーい、ウルヴァや。そろそろ本土からの配達の軽飛行機が着くころだよ。手が空いているなら缶詰を取りに行っておくれ」向こう岸で村人とアザラシや鮭をさばいていた母が橋のたもとまで来て声をかけた。
 白夜のこの季節は北極海から吹き付ける風もぬるい。雪は完全に消え褐色の大地と緑が力強く息づいている。永久凍土が溶けているせいかあちこちに沼が現れ水鳥が優雅に泳いでいる。ぬかるみにおおわれたところが多く犬ゾリやスノーモービルが使えないので、少し高い位置に通行用の木板をつないだ幅2メートルほどの木の道が縦横に走っている。
 自転車のかごに受け取った缶詰のパックを放り込んで木の道を走っていると、野生のカリブーが反対側から堂々と歩いてきてぶつかりそうになる。
 向こうから手押し車を連ねたデニイギの一家がやってくるのが見えた。だぶだぶのジーンズにサングラス。イヤホンで音楽を聴いているが、目の奥に哀しみが宿っている。島の海岸部に住んでいたがアラスカ本土へ引っ越すという。
「もう行くのか」
「やあ、ウルヴァ。高波で家がぶっ壊れてしまってもう住めないんだ。海岸に接岸する海氷が高波から浸食されるのを防いでくれていたんだけど、年々、氷が減ってね。ことしなんて2月には姿が見えなくなったね。ひどいものさ。ここ何十年かで砂浜も幅50メートルは消えたんじゃないか」
「デニイギ、元気でな。島のあちこちで家が倒壊している。僕の家は奥だけど、そのうち出ていくかもしれない」
「ウルヴァ、またどこかで会おう。ああ、そうだ、これ」とデニイギは一冊の本を差し出した。「この小説に出てくるキリマンジャロの雪ももうすぐ溶けるそうだ」
 デニイギはノーザンゲームという、イヌイットやユピックなど北極圏の先住民のオリンピックの英雄だった。競技は狩猟に関係する種目が多い。ブランケットトスは毛布を男たちが一気に引いて仲間をどれだけ高く持ち上げられるかを競うゲーム。遠くの獲物を見つけるのに不可欠な技だ。腕立て伏せの形で手は拳のままコツコツとバッタのように全身ではねてスピードを競う短距離走。これも猟には必要だ。そんなゲームを競うのだが、デニイギはいつも一番だった。
 雪が少なくなり、猟が低調になるとこんな伝統的行事も廃れた。アラスカ本土ではあちこちで原油が噴出し、先住民に思わぬ大金がころがりこんだ。あるいはそんなことも影響しているかもしれない、とウルヴァは思う。
 自転車をこぎながら海岸へ出た。遠くに漁をするカヤックが何艘か波間に浮き沈みしている。岸にはクジラの黄色い脂身が干してある。村の集会所があった。ウルヴァは窓際のチェアに腰かけてデニイギにもらった本を開いた。アフリカのキリマンジャロという山の頂に凍りついた一頭のヒョウの屍が横たわっているという物語だ。どうしてそこまで駆け上がったのか、理由は不明だが、氷が溶けたらどうなるのだろう。
 雪に埋もれることで永遠の命を得たはずの気高いヒョウはやがて腐臭を放ちウジにまみれて朽ちていくのか。それではあまりにもヒョウを冒涜した話ではないか。皮と骨をさらし干からびたみじめな姿が、ウルヴァ自身や先住民の運命を暗示しているようで、苦い気持ちになった。
 部屋の中では、古老たちのよもやま話に花が咲いていた。ボーフォートシーのイヌイットから聞いた話じゃが、ホッキョクグマが絶滅しかけているとよ。そうそう、ちょうど今頃、妊娠したクマは北極海に深く降り積もった雪や氷、凍土を掘って出産のための巣を作るんだよな。それがさ、北極海でも氷が溶け始めているってさ。クマは生存基盤を失っちゃ生きちゃいけないわ。クマも人間も変わるめえ。そういうこった。
 その時だ。つけっ放しのテレビから何かを訴える女の子の怒りと哀しみに満ちた声が聞こえてきた。
 「苦しんでいる人たちがいます。死に瀕している人たちがいます。生態系全体が破壊されているんです。大規模な絶滅が始まろうとしているのに、話すのはお金や永遠の経済成長というおとぎ話ばかり。よくもそんなことができますね」
 どうやら国連でスウェーデン人の16歳の子が話しているらしい。古老たちも雑談をやめ、画面に見入っている。
「これが気候のための学校ストライキを呼び掛けているグレタって子だね。ミステリアスな女優だろ?」
「違うよ。あれはガルボ。古いねえ。この少女はわしら世代へ異議申し立てをしているんじゃ。CO2を大量に出す飛行機を嫌って英国のプリマスから米国のニューヨークまでソーラーのヨットで大西洋を横断してきたらしい」
 ウルヴァが立ち上がり椅子を蹴った。「ストライキだけじゃすまないぜ。温暖化は地球に対する戦争じゃないか。家を倒し、家族を壊し、友情を破壊する。それだけじゃない。自然も文化も伝統も滅茶苦茶にしやがった。俺らだって黙っちゃいない。このアラスカの小さな村から温暖化という怪物に気候戦士として宣戦布告する。いいか、覚悟しろ」。

(完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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