ある孤高の画家の肖像

 別荘の正門をくぐると、敷地の左手が緩い下り坂になっており、夕日に染まった海に溶け込んでいる。誰か草を取っているのが見えた。ヒョロリと背が高いシルエット。あっ、あの画家だ。私と記者が駆け寄ると満面の笑み。少年のような純粋な瞳で、大きな手を差し出した。
「ここにいるのがよく分かったね。人を避けているわけではないんだよ。ただ、妻のベッツイが僕を守ろうとしてくれている。静かな環境で絵筆が取れるようにとね」
 長い足を折り曲げるようにして座った巨匠を前に私は胸が震えた。
「島ではベッツイと一緒。ヘルガもいたよ。今も彼女を描いているんだ。もう孫がいる歳なのだけどね。ハハハ」
 記者がインタビューを始める。
「あなたの絵は具象ですか抽象ですか」
「クリスチーナの白い家へ行ったかい」
 記者は無念そうに首を横に振る。
「あそこでふたつのドアを描いた。あれを見ればわかるだろう。私の絵は単なる具象ではない。クリスチーナは気高い女性だ。自然の奥深さや物事の本質をよく知っている。あのドアの絵も愛や人生という概念を描いた抽象といっていい」
 私は口を挟んだ。「青いドアの横に下がっているピンクの布。あれって彼女がいつも着ていた服じゃないですか」
 画家はオーッと両手を広げた。私は美術館で買い求めたアートポスターを広げてみせた。
「この絵も抽象ですか。ありきたりの椅子の絵をポスターとしてなぜ売っているのか、不思議に思って購入したのですが、この絵の意味、今やっとわかりました」
「そうか」画家ははにかむような笑いが浮かべ、ポスターを指さした。「確かに、そこにはヘルガが隠れている。カーナー農場のその部屋でヘルガを描いたんだ」
 記者が鋭く突っ込む。
「なぜヘルガの絵を秘密にしていたのですか」
「隠したのではない。ヘルガのことは人に話したくなかった。話すことで感動を中断させたくなかった。1枚でも誰かに見せてご覧、すばらしいと評価されればそこで気持ちが切れる。よくないと言われたら、それで終わりだ」
 1971年から1985年までの間に何と200点以上ものヘルガを描いた。愛人関係かと騒がれたが、今ならわかる。画家とモデルの間に存在する広い意味の愛だったのだろう。
 チャッズフォードとクーシング。画家はたった2か所のごく狭い世界で一生を送ったが、そこには普遍的で確かな人生と気高い芸術が存在した。

 部屋の壁に飾られたイスの絵に改めて目をやる。イスにはモスグリーンのローデンコートがさりげなくかけられている。ヘルガが愛用していたものに違いない。
     (完)

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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