「津浪と人間」:寺田寅彦(1933)の随筆―NPO法人「もったいない学会」会長 石井吉徳

災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津波災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。

さて、それから更に37年経ったとする。その時には、今度の津波を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。

そうして、今回の津波の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から37年後の地方の中堅人士となっているのである。

37年といえば大して長くも聞こえないが、日数にすれば1万3505日である。その間に朝日夕日は1万3505回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。

津波に懲りて、はじめは高い所だけに住居を移していても、5年たち、10年たち、15年20年とたつ間には、やはりいつともなく低い所を求めて人口は移って行くであろう。

そうして運命の1万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

これが、2年、3年、あるいは5年に1回はきっと10数メートルの高波が襲って来るのであったら、津波はもう天変でも地異でもなくなるであろう。

風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏25度を下がる事がなかったとする。それがおおよそ100年に一遍くらいちょっとした吹雪ふぶきがあったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我が国の津波に劣らぬものとなるであろう。

なぜかといえば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば凍こごえるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。

いわゆる台風なるものが30年、50年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。

夜というものが24時間ごとに繰返されるからよいが、約50年に1度、しかも不定期に突然に夜が回り合せてくるのであったら、その時にいかなる事柄が起るであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。

さて、個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないものかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は100年の後には必ず入れ代わっている。

役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な1万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合はなおさらそうである。政党内閣などというものの世の中だとなおさらそうである。

災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい所に立ててあるのが、道路改修、市区改正などの行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山陰の竹藪の中に埋もれないとも限らない。

そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく言っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石がやえむぐらに埋もれた頃に、時分はよしと次の津波がそろそろ準備されるであろう。

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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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