サッカー通じたボスニアと日本の架け橋[中畑 陽一]

森田太郎氏と現地の少年たち
森田太郎氏と現地サラエボの少年たち

最悪の民族紛争の地で、日本人がサッカーを通して民族融和に挑戦したプロジェクトがあることをご存知でしょうか。今回はそのプロジェクトの紹介と、戦後70年を迎えた日本のこれからを考え、サッカーの力を考えるのにふさわしいツアーについてお知らせしたいと思います。(IR・CSRディレクター=中畑 陽一)

■サラエボ・フットボール・プロジェクト

その男森田太郎氏は、静岡県立大学国際関係学部の同期生であり、当時からバイタリティに溢れた学生でした。ちょうど大学時代の1999年、タジキスタンで凶弾に倒れた国際政治学者秋野豊氏の基金を生かした第一回秋野豊賞に、森田氏のボスニアにおける民族融和サッカープロジェクト案が選定され、「サラエボ・フットボール・プロジェクト」が立ち上がりました。

それは、1992年から1995年まで続いた民族紛争の傷が、人々の心に深く残るそのボスニアの地で、サッカーを通して子供たちの心から民族の壁を取り除こうとする壮大なプロジェクトでした。

小さい頃、バスケットボールの国際試合をテレビで見ていて、ユーゴスラビア代表が民族の違いで分裂した様を目の当たりにした際の率直な疑問から、彼のユーゴスラビア(その後ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロなどに分裂)への関心は始まりました。

その後ボスニアでの民族融和のためのNGO活動に参加すべく現地へ渡った森田氏は、戦争を経験しない子どもたちからさえ、他の民族を憎む声を聞き、「このままではいけない」と強く思ったことが今回のプロジェクトのきっかけとなったそうです。

森田氏の学生時代の著書である『サッカーが越えた民族の壁』によると、FCクリロと言うそのサッカーチームが、いかに子供たちの心の壁、そしてその親の心の壁を、その人たち自身が乗り越えて「チーム」になっていったかが、克明に描かれています。

当時その本を読んだ私は、かつて殺しあったクロアチア人、セルビア人、ボスニアック人(アイウエオ順)の3民族がひとつのチームでボールを蹴る夢のような事が、日本人がきっかけをつくって実現したことに、日本のこれからの役割を見た思いがしたものです。ちなみに元日本代表監督のオシム氏はこの挑戦に共鳴し、その後群馬で新しく立ち上がったサッカークラブの命名を依頼され、「FCクリロ(翼)」と同じ名前を薦め、日本でも同じ「クリロ」が今でも活動を続けています。

■日本初の貴重なツアーが今年8月に

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中畑 陽一(オルタナ総研フェロー)

静岡県立大学国際関係学部在学時、イギリス留学で地域性・日常性の重要性に気づき、卒業後地元の飛騨高山でタウン誌編集や地域活性化活動等に従事。その後、デジタルハリウッド大学院に通う傍らNPO法人BeGood Cafeやgreenz.jpなどの活動に関わり、資本主義経済の課題を認識。上場企業向け情報開示支援専門の宝印刷株式会社でIR及びCSRディレクターを務め関東・東海地方中心に約70の企業の情報開示支援を行う。その後、中京地区での企業の価値創造の記録としての社史編集業務を経て、現在は太平洋工業株式会社経営企画部にてサステナビリティ経営を推進。中部SDGs推進センター・シニアプロデューサー。

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