「原発推進のために太陽光発電を抑え込んだのは電力業界と経産省だ」 吉田愛一郎氏

吉田愛一郎氏

私の父は役人として参議院で働きながら、戦後の国政を眺めてきた。自宅に国会や委員会を運営する同僚たちが集まり、夜な夜な酒を酌み交わしていたのをよく覚えている。彼らのよもやま話の中には、日本が原発推進に舵を切った事情も含まれていた。あれから半世紀が過ぎ、私がソーラービジネスに関わるようになると、いろいろなことが見えてきた。当時の話を思い起こしながら、経過を整理してみよう。

■ 原子力の平和利用は核の在庫処分

戦争の傷がまだ残る1953年、当時の米国大統領アイゼンハワーは国連で「平和の為の原子力」と題する演説をした。核戦争の危険を憂慮した大統領が核の平和利用を進めることなどを訴えたものだった。これが地球の裏側にある日本の電力事情をも変える大きなきっかけとなった。

当時の米国はソ連との冷戦が続き、核兵器を増産し、その結果として核がだぶついて困っていた。そうしたこともあり、父の仲間たちは「原子力の平和利用」は在庫処分の便法に過ぎないと話していた。

日本は原爆を落とされた世界で唯一の被曝国だが、同時に敗戦国でもあり米国の意向には逆らえない。読売新聞社の正力松太郎氏や、後の首相中曽根康弘氏らが原発推進の旗振り役となった。

被爆国の日本こそ原子力の平和利用をしようと言うキャンペーンはかなり強引なものだ。だが、アメリカ仕込みのこのキャッチフレーズは国民に浸透し、原子の子、鉄腕アトムが日本の上空を飛び廻わり、茨城県東海村に原発が出来た。

昭和30年代を境に日本の復興は急速に進み、オリンピックを開催できるまでに成長し、万博も招へいした。それに連れて原子力予算もどんどん増えた。田中内閣が日本列島改造論を唱えると、原発の林立時代に突入し、電力会社には未曾有の金が流れた。

■ ソーラーを抑え込んだ電力業界

経済成長がこの先も続くものと浮かれていた日本人に冷や水を浴びせたのが第一次石油危機。石油が高騰し、省エネ対策に迫られた。1974年に新エネルギー計画であるサンシャイン計画が登場し、92年までに総額4400億円が投じられた。この計画で地熱や石炭の液化などとともに脚光を浴びたのがソーラー発電だった。

しかし、この事態に一番戸惑ったのが電力会社だといわれる。電力会社以外が電気を供給することなど、想定していなかったからだ。

地産地消型のソーラー発電が普及すれば、自分たちの送電網はいらなくなる。ましてや大規模発電の究極である原発なぞ無用となってしまう。つまり、原発を推進する電力会社そのものがいらなくなる流れにつながると考えても不思議ではない。

そこで考え出されたのが、電力会社の送電線を利用したソーラーシステムだと私は思っている。自分たちのインフラを使わざるを得ないようにすれば、電力会社はソーラーを抑え込める。参入ハードルも高めて、極力中小企業や外国産のものは参入させないようにした。経産省と電力業界が結託したうえに生まれた補助金制度のもとでは、大手メーカー以外の独立系のソーラー発電システムが食い込むことは難しい。

こうして、当初は世界のトップランナーだった日本のソーラー発電はじりじりとその地位を下げ、原発の陰に隠れてしまった。スサノウのみことの乱暴にその身を岩戸に隠した日本の神、太陽神天照大神のように。

いったい誰が彼女を天の岩戸から引き出すのだろうか。(吉田愛一郎)

 

吉田愛一郎

1947年生まれ、フェアートレードの会社Greenishを設立しケニアからコーヒー、紅茶を輸入したのを皮切りに、アフリカ諸国の支援に取り組む。孤児院Greenish House の建設、職業訓練校、給食センターの設立、農業プロジェクトの推進など活動は多岐にわたる。埼玉県獣医師共済組合事務局長。独立型のソーラーシステムを農家に販売するGCアンドC代表取締役でもある。

editor

オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

執筆記事一覧
キーワード:

お気に入り登録するにはログインが必要です

ログインすると「マイページ」機能がご利用できます。気になった記事を「お気に入り」登録できます。
Loading..