徳江氏の父・毅氏は、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場の技術部長、工場長を経て専務を務めた方だ。
徳江倫明氏は「水俣病の原因が工場廃液ではないかと疑われた時、なぜ、廃液浄化装置をつけておかなかったのか。そのような判断にいたらない企業の価値観、リスクを低減する仕組みを作らない企業のあり方こそ問われるべきだ」と話す。
つまり日本社会に定着させるべきなのは、人も企業も必ず誤りを犯すということを前提にした「予防原則」という考え方、仕組み作りだ。
水俣病の症例が顕著になってきたのは1952年ごろ。水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。同社は1946年から、有機水銀を含む工場廃液を無処理で水俣湾へ排出していた。
当時の医学界は、この神経症状の原因を特定することが出来なかった。その中で熊本大学の研究チームが1959年7月、「水俣病の原因は有機水銀と思われる」と発表。チッソ水俣工場が水銀を流したと疑われた。
これに対して、チッソは有機水銀説は間違っていると反論、「水俣湾に沈められた爆弾が原因ではないか」と主張した。その後、公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月のことだった。熊本大学の発表から実に9年の月日が流れ、この間にも水俣病の患者が増え続けた。
当時、疑われる原因に「とりあえず対処しておく」という経営判断がチッソにあれば、別の展開になっただろう。
廃液浄化装置の設置費用は当時でも数百万~1000万円程度であったと推定される。その対処をしなかったばかりに、チッソはその後、1700億円以上の補償金・一時金を支払うことになった。これは経営陣としてもあまりに大きな判断ミスと言わざるを得ない。