21世紀にもなって今回のロシアによるウクライナの侵略、かくもあっさりと、かくも無残に主権国家が侵略、蹂躙されようとは誰が予想しただろうか。300年以上かけて人間が築き上げてきた市民社会そして主権国家が一人の独裁者によって粉々にされてしまったのだ。(中部大学副学長・細田衛士)

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。これはヘーゲルの『法哲学』の有名な一節である。近代市民社会の理想を表した言葉だ。しかし、この言葉が今ほどむなしく響くときはない。

「歴史は繰り返す」とは人口に膾炙(かいしゃ)された言葉であるが、その通りで、よく考えてみると国家の名前がソ連であろうがロシアであろうが、この国は同じことを繰り返してきたことがわかる。市民社会の誕生を阻害し主権国家を侵略する歴史そのものなのだ。

私が最も鮮明に覚えている今回のウクライナ侵略と類似の事件は、1968年のソ連主導のワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキア侵攻(チェコ事件)である(さすがに1956年のハンガリー動乱のことは記憶にない)。

私が中学1年生だったときの夏、忘れもしない8月20、21日、ソ連主導のワルシャワ条約機構軍が突如チェコスロバキアの首都プラハに侵攻し、主権国家を蹂躙した。暴虐行為の理由はこうだ。

当時、チェコスロバキアではドプチェク第一書記の指導の下、社会主義の下ではあるが、自由化に向けての改革が行われていた。いわゆる「プラハの春」である。

これは「人間の顔をした社会主義」とも呼ばれていて、人々の自由を保証する市民社会の誕生を意味していた。ところが、ソ連はこれを西側(西ヨーロッパの民主主義国家)にすり寄った行動をみなし、チェコスロバキアを恫喝し強くけん制したのである。そして、最終的には軍事力によって介入し、プラハの春を冬に戻し、自由な市民社会の誕生を力ずくで阻止した。

今ウクライナで起きていることは、プラハの春に対する軍事介入をはるかに超えた行為である。有無を言わせぬ武力行使であり、主権国家の破壊そのものだからだ。

もし、仮にロシアがウクライナ侵略に成功したとして、その後一体何が残るというのだろうか。強引にそして不法に親ロ政権を樹立させたとしても、ウクライナの人々がついていくはずもない。軍事力だけで国を治めることなど不可能なのである。

現に、力ずくで治めていた旧社会主義国家群はソ連の崩壊とともに瓦解し、その後多くが健全な市民社会へと国づくりを始めた。チェコスロバキアも、1989年のビロード革命によって再び自由化、民主化の道を進め、今や健全な市民社会を築いている。ソ連によって失脚させられたドプチェク第一書記も復権し、その後の国造りのために力を尽くしたのである。

今さら、その道筋を逆戻りさせようというのであろうか。今や、自国の経済運営さえままならないロシアが、どうやって他国を支配できるというのか。それも軍事力によってである。

人々の自由を求めた動きは、ごく短期的には阻止することができるように見えても、長期的には止めることなど不可能である。歴史的に見ても、それは明らかだろう。今回のウクライナの侵略は理性の範囲を逸脱した行為としか言いようがない。

今、ジョン・ロックの『統治論』を読んでいる。その一節に、「自分から進んで他人と戦争の状態に入り、他人の権利を不当に侵害する侵略者が、そのような不当な戦争によって、被征服者に対する支配権を手に入れるようになるということは決してあり得ない」とある。

ロックが『統治論』を書いたのは1690年。それから300年以上を経た今、我々が目の当たりにしているのがロシアによるウクライナの侵略行為である。ロックやヘーゲルの時代から人間は退歩してしまったのではないか、そう思わざるを得ない日々が続いている。