タクシードライバーの五輪物語

 運転手によれば、キューバはボクシング大国でこれまでに78個のメダルを獲得している。彼自身も期待されての五輪だったはずだ。仮にメダルを故国に持ち帰っていたら、あるいは人生が変わっていたかもしれない。
 雨が降り出した。ついてない奴はどこにもいる。私がいい見本だ。奨学金で大学を卒業、何とか小さな商社に入った。真面目に働いたものの、突然の倒産。得意の英語のおかげで外資系のメーカーに潜り込んだ。そこも上司とケンカして飛び出した。
 やけ酒に博打の毎日で子供も2人いたが離婚。いまはブローカーまがいの仕事で何とか生きている。運の悪いことは続くものらしく、なんと詐欺にあってしまった。人を信じた自分が馬鹿なのか。内に溜まった不安や不満が発酵して耐え難い腐臭を放ち始めている。もう我慢の限界だ。余計なことを考えずに決行するしかない。思わず、ベレッタを引き抜いた、その時だった。
「ワシは運が悪かったとは思っていない。メダルを取っていても、いずれキューバを出ていただろうよ」私の心の内を見透かしたように、男は言った。「キューバでは1959年に革命が起きた。ワシはブルジョア階級の出身だった。五輪前から冷遇されていたんだよ」
 タイヤをつないだ筏でフロリダを目指した。若妻は大波にさらわれたという。
 私は体の強張りを解いた。男はまっすぐ前を見たまま話を続ける。道の両側は闇が広がり、遠くからジャズが流れてくる。
「実はワシも東京で試合会場を間違えてな」
「ボクシングの?」
「そうさ。外国から来た観光客と思われたのか、タクシーに小石川後楽園に連れていかれたんだ。会場は後楽園アイスパレス。普段はアイススケート場だ。だから、いくらオリンピックだ、ボクシングだと叫んでも通じないんだ」
 私は何かおかしくなって声を立てて笑い出した。試合時間が迫り、コーラクエン、コーラクエンと涙を流さんばかりに訴えるキューバ人と、ここ、ここだよ、ここが後楽園だと困りはてた顔で、元水戸徳川家の美しい庭園を指さす運転手。これが笑わずにおられようか。
 そこへ和服の女性が通りかかったのだという。たおやかで美しい彼女はすぐに事情を察し、的確な判断と指示で男はボクシングの試合に間に合ったそうだ。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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