オルタナ編集長)大震災から半年--二人の「早川徳次」に学ぶ不屈の精神

 

 

 

東京地下鉄創設者の早川徳次

◆地下鉄銀座線が最も早く復旧した

今日は東日本大震災から半年、そして、米国の同時多発テロから10年の日である。いま、私たち日本人にとって最も必要なのは、「不屈の精神」だろう。それを、偶然の同姓同名である、二人の「早川徳次」から改めて学びたい。

今年3月11日の地震で、東京でも公共交通機関が長時間に渡り不通になった。東京メトロと都営を合わせた13路線で、最も早く復旧したのは、実は最も古い歴史を持つ「銀座線」だった。

「東洋初の地下鉄」として1927年(昭和2年)に開通した「銀座線」の建設に生涯を捧げたのが、山梨県出身の早川徳次(のりつぐ、1881-1942)である。

早川は、後藤新平が総裁を務めていた南満州鉄道(満鉄)に入社、その後、東武鉄道の創始者、根津嘉一郎に見出され、ロンドン視察で目にした地下鉄に衝撃を受け、これを日本に導入しようと心に決めた。

その銀座線が開通に向けて各所で槌音を上げていた1923年9月1日、関東大震災が東京を襲った。

東京の下町で生まれ育った早川徳次(とくじ、1893- 1980)はそのころ、1915年に「早川式繰出鉛筆」として発明したシャープペンシルの事業が波に乗り、従業員の数が200名を越えるまでになっていた。しかし大震災で起きた大火事のため、妻と2人の子供が亡くなり、工場も焼け落ちてしまった。

大震災で借金だけが残り、シャープペンシルの特許を売って、ようやく借金を返済できた。そして翌年、大阪に移り、早川金属工業研究所を設立した。これが現在の「シャープ」の源流である。

◆銀座の伊東屋が認めてくれた

シャープペンシルは、売れ始めるまでには大変な苦労があった。

当初は、「和服には向かない」「金属製は冷たく感じる」など評判は芳しくなく、全く売れなかった。当時から文房具の有名店だった銀座の伊東屋の番頭から何度もダメ出しをされ、作った試作品の数は36に達したいう。

しかし、何度も試作品を作り続ける徳次の熱意にも動かされ、伊東屋の番頭は36の試作品についてそれぞれ1グロス(144本)という、異例の大量注文を出した。それが、日本でシャープペンシルが普及するきっかけとなった。

東京地下鉄の早川徳次も、事業開始までには大変な苦労があった。

今でこそ、地下鉄はだれにも身近な存在だったが、当時の日本人には、鉄道が地下を走ることなど想像の範囲を大きく超えていた。しかも東京の地盤は軟弱で、地下鉄は無理だろうという意見が大半を占めた。

しかしその後、地層図で軟弱な地層の下に固い地層があることが分かり、これが大きな転機になった。 渋沢栄一らの協力も受けることができ、1920年に東京地下鉄道株式会社を設立した。

◆「地下鉄の父」と「日本のエジソン」

この二人はそれぞれ、「地下鉄の父」「日本のエジソン」と呼ばれる存在になった。特にシャープの早川徳次は、震災で妻子を失った後に、再びゼロから会社を興し、ラジオやテレビの量産を手掛け、会社を大きく成長させた。

今から87年前の関東大震災でも多くの人が亡くなったが、同時に、未曾有の危機を乗り越えた数々の企業が生まれた。本田技研工業の創設者、本田宗一郎も、関東大震災を機にビジネスを興した一人である。

東日本大震災では、いまだに瓦礫が残る場所も少なくなく、完全な復興への道のりは長い。しかし、被災地の随所には、二人の早川徳次同様の「不屈の精神」を持った住民や経営者、行政家らが数多くいるはずだ。この小文は、そんな彼らに捧げたい。(オルタナ編集長=森 摂)

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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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