うちのニャンコは名通訳:希代準郎

「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(29)

 大学の授業までに間があったので、サーモン味のキャットフードを駅ビルで買おうと緑の窓口の前を通りかかった時だった。黄金週間の切符を求める長い列、その奥で突然怒鳴り声があがった。すぐに向こうから若い女の子が飛び出してきた。人波を縫って風のように駆けていく。桜の花びらのようなスニーカーがまぶしかった。
 「君たち新入生が関心のある社会課題ってなんだろう。きょうの授業はこのテーマで同じ机の人同士で話し合ってみようか」
 教授の提案に一瞬とまどいが教室に広がる。それでもあちこちでにぎやかに議論が始まった。この机の左隣の女の子はぼんやり前を向いているだけだ。こりゃ、まずい。「あの、法学部の山上令和というんだけど」と声をかけてみたが反応がない。お高くとまってやがらあ、と内心で毒づきながら彼女の足元を見てハッとした。あれっ、さっき駅で見たスニーカーじゃないか。
 また電車が遅れちゃってさあ、と言いながら右側から誰かが滑り込んできた。高校時代のクラスメート、友作だ。「あっ、その子さ、同じ文学部なんだけど、耳が聞こえないんだ」。友作はそうささやくと、紙にボールペンを走らせ「先生が関心のある社会問題は何か話し合えって。僕は友作。こいつは令和」。
 そのメモを渡された女の子はうなずくと「美柚です。関心があるのは障害者支援、特にIoTの活用かしら」と書いて寄こした。
 学食で手話のできる千香が加わった。
 「美柚が令和君に謝っているわ。いつもは学生サポートセンターのスタッフが先生の発言をノートテイクしてくれるの。それをパソコン画面で読めるんだけど、今日はスタッフが急病でいなかったから先生の指示がわからなかったらしいの」
 説明する千香の横で、美柚が手を合わせてゴメンと神妙な顔をしている。話すのも得意ではないようだ。
 「いいんだ。それより」。令和は駅での出来事について尋ねてみた。千香の手話通訳を凝視していた美柚がキャッといたずらっぽく笑ってすぐに手話を返してきた。
 「通学定期を買いに行ったの。通学証明書で買えるんだけど、障害者割引でもっと安くなるはず。でも、うまく話せなくて。駅員のおじさんがすごくつっけんどんなの。『何を言っているのかわからない』とノートに書いて渡したら、怒っちゃって。障害者手帳を出すのを忘れていた私も悪いんだけど、私を窓口からどかせようとするのよ。アタマにきたから時刻表の本を思い切り投げつけてやったの」
 「へえ、気が強いんだね」。令和が笑うと、「聴覚障害って一見わかりにくいのよね。車いすなら身体障害だし、目の悪い人は白杖持ってるでしょ。それが、耳の場合は気づいてもらえなくて、ちゃんと聞いているのか、なんて誤解されちゃうことも多いの」。
 それでもIoTはすごいわよ、と千香がスマホの画面を見せてくれた。NPOのコールセンターにいる手話通訳者を遠隔で呼び出せるのだという。

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希代 準郎

きだい・じゅんろう 作家。日常に潜む闇と、そこに展開する不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな担い手。この短編小説の連載では、現代の様々な社会的課題に着目、そこにかかわる群像を通して生きる意味、生と死を考える。

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