■雑誌オルタナ85号:フラッシュ・フィクション「こころざし」の譜(49)
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住宅街の外れにある私のアパートにたどり着くにはだらだらとどこまでも続く長い坂に耐えなくてはなりません。週に一度の買い物の帰りには、昔から坂の手前に置いてある年代物のイスに座って休むことにしています。
午後の早い時間だと小中学生や高校生が学校から帰っていきます。しばらくすると買い物かごを抱えた主婦、夕方になると会社帰りの勤め人が黙々と坂を目指すのです。
イスでぼんやりしている老婆に関心を示す人なんていやしません。大抵が素通りです。
ところが、奇特な人もいるもので、時々、私に声をかけてくるのです。迷惑だなんてとんでもありません。だって、ちょっとした世間話をするだけでも気分が晴れるではありませんか。
「おばあちゃん、急に雲が出てきたわ。もうすぐ雨かしら」
「座り込んでしまってどうかしたの。足でも痛いの」
「おばあちゃん、もう暗くなりますよ。早く帰ったほうがいいですよ」
そんなたわいない一言でも心にぱっと灯りがともったような気になるから不思議です。アパートに待っている人がいるわけでもないし、狭い部屋で話もしないで一日過ごすのは苦痛ですから。
親切にも、荷物を持ってくれる方もいるんですよ。正直、こんな人が現れるかも、と期待してここに座っているようなものです。派手メイクもその下心のせいなんです。
だって、ジャガイモやキャベツ、かぼちゃって結構重いんですよ。おまけに缶ビールも買うしね。若いころから酒が嫌いな方じゃなかったので。暑い夏にクイーッと一杯、たまらないわ。そんな食料品がどっさり入った袋を持ってこの長い坂を上るなんて、苦行そのものです。荷物を抱え途方に暮れている老人に気づいてくれる方は必ずいるものです。ありがたいのは多感な年頃の女子高生ね。もう少し年を取ると普通の残念なおばさんになってしまうのに、まだ純真で初々しい女の子たち。
「あの、もしよければ荷物お持ちしましょうか」なんて遠慮がちに声をかけてくれる。手まで引いてくれるので、もううれしくなって、思わず「勉強、頑張っている?」なんて聞いてしまったりしても、「いえ、私、アタマ悪いから」とどこまでも謙虚なの。私にもこういううぶな時代があったのかと思うと嘘みたい。
今どきの若いサラリーマンも好感が持てます。
「おばあちゃん、その荷物重いだろ。俺持つよ。一緒に坂上ろう」ぶっきらぼうなのに、やさしいの。坂の途中で苦しくて、ゼイゼイ言っていると「よし、おんぶしよう」と背負ってくれたりする。もう感激。
ところが世のなか、そういう善人ばかりじゃないのよ。先日、こんなひどい目に遭いました。いま思えば目つきも悪いし風体も怪しげな男でしたね。
「婆さん、こんなところで何してんの。家まで送ってやろうか」と親切ごかしにすり寄ってきて値踏みするようにこちらをジロジロ見るのよ。その男が途中で私を突き飛ばして荷物を奪い、がま口をひったくったの。「なんだ、これっぽっちか」と憎々し気な口をききながら、なけなしの三千円を持っていこうとするんです。その時は悔しくてね。「泥棒、人殺し」と必死に叫びましたよ。おかげで通行人が寄ってたかって男を縛り上げてくれました。
それはそれでよかったのですが、何と、この事件が新聞の社会面に載ってしまったの。これがきっかけでちょっとした有名人になってしまいました、この私が。
座っている私のところには何かと人が集まるようになってね。
「部活の試合に行くんですけど」と中学校の場所を尋ねた野球のユニフォーム姿の男の子たち。ついでに野球の試合を観戦させられてね。久しぶりに大声で応援しましたよ。試合?負けましたけど。
「区役所に行く道を教えて」という建設業者の時は大変でした。何度説明しても理解してくれないんです。
「おばあちゃん、いくら聞いてもわからん。一緒に車に乗ってくれんか」と強引に同乗させられて区役所まで行きました。もちろん、後で家まで送ってくれましたけど。
人が集まると、自然に話が盛り上がります。私の話がおもしろいらしく段々人生相談みたいな話題が増え、最近では行列までできるようになったんです。交通の邪魔になることもあるようで、時々、駐在のお巡りさんが見回りに来るようになりました。でもなぜかお巡りさんは私に冷たいんですよ。警察というのは古い記録なんかもしっかり残しているのでしょうね。私、実は若いころ警察にちょっとお世話になったことがありまして。
そうしたある日、ふたりの男が唐突に私の目の前に現れたんです。
「あなたが有名なおばあちゃんですね」
私ははあ、とあいまいにうなずきました。背の高い方が「ひょっとして、あなた、だらだら坂のお富さんじゃありませんか」と聞くのです。私はびっくりしました。その通りだったからです。私の名前は富江というのです。
「覚えていませんか、ほら清水ですよ。のっぽのシーヤン」
「私は吉岡。角刈りのヨッチャン」隣の男がぺこりと頭を下げました。
「シーヤンにヨッチャン、まあ、久しぶりだこと」
「坂の下のイスに座る女の人、と新聞に出ていたでしょう。ふたりで、ひょっとしたら、いつも坂下に立っていたお富さんじゃないか、ということになってね」
「みんな、この長い坂を目の前にすると足が止まってしまってね。よく私に声をかけてくれたのよ」
向こうからお巡りさんが自転車で通りかかった。厳しい顔で一瞥をくれたが、急にニコリと笑って「お勤めご苦労様です」。



