【連載】藻谷浩介の『ファクトで考えよう』(5)
新自由主義者は、なぜ地球環境の制約を軽んじ、永遠の経済成長を目指すのでしょうか。彼らの頭の中でどういう理屈が回っているのかを理解してからでないと、説得や抑止は始まりません。(藻谷 浩介・日本総合研究所主席研究員/オルタナ客員論説委員)
新自由主義の発想の基底には、ユダヤ系一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)由来の構造があります。言い換えれば、この3宗教の信者の多い国は、新自由主義となじみがいいのです。
これらの教義では、人間は原罪を持って生まれ、神の創造物の中では他に絶対的に優越していますが、最後の審判では神に裁かれる立場であります。何が善で何が悪なのかという裁定は、神の専権であり、人間はこれを浅知恵で推し量るしかないのです。
こうした諸点を謙虚に捉えて禁欲的な生活を送る者もいますが、逆に「もともと原罪のある身、いずれ神の審判も下るのだからそれまでは」と、地獄落ちも覚悟でバベルの塔を建てる者もいます。
ところで現代人の多くは、もはや神を信じてはいません。ですが欧米の新自由主義者は、一神教由来の原罪の自覚と、他の生物への優越意識、そして最後の審判への覚悟を、思考の基底に受け継いでいます。
だからこそ、他者や自然環境を犠牲にした目先の利潤のあくなき追求を、開き直って続けられるのです。欧米には逆に、「人類は地球の破壊者だ」と自覚する経済活動否定・自然至上主義者もいますが、これは「原罪」と「最後の審判」という思考構造を残しつつ、他種への優越意識を責任意識に裏返らせた発想です。そしてそのどちらも、「人間も生き物も、八百万の神々も、地球の仲間うち」と発想する日本人には、極論に聞こえるのです。
ちなみに同じエコノミックアニマルでも中国の場合は、原罪観も終末観もなく、天意を受けた統治者に理非決定の全権がある文化です。だから上に強制されるまでは個人は自己規制しないのですが、逆に政治が突然に環境保護に舵を切って経済的自由を制限することはありえます。
さて、ここからが本題ですが、新自由主義の基底には、一神教由来の思考構造が、前述の通りもう一つあるのです。人間の浅知恵を自覚し、善悪の裁定を「神」に委ねていることです。
「神」を「人知を超えた何か」に置き換えれば、理解しやすいでしょうか。旧ソ連はここに「プロレタリアート独裁」という概念を代入して70年で力尽きたし、「ドイツ民族精神」を代入したナチスは10年保ちませんでした。ですが新自由主義は、ここに「自由競争」を代入するという離れ業を行い、日本や中国のような一神教文化ではない地域にも、浸透する成果を挙げました。