オリパラで終わらせない、「情報保障」の気付き

実家のテレビに字幕が導入されたのは1980年代の半ばだろうか、比較的早い方だと思う。妹のための出費は惜しまない親が、高価な文字多重放送の機器を取り付けたのだ。

しかし当初字幕を配信していたのは時代劇など年配層向け番組がほとんどで、妹にはたいして面白くなかったに違いない。私は時代劇が好きで『独眼竜政宗』の名セリフ「キョウエツシゴクニゾンジタテマツリマス」が「恐悦至極に存じ奉ります」と漢字で表示されておおっ!こう書くのか!と思ったのをよく覚えている。

現在はリモコンに字幕ボタンがあたりまえに付いているし、ジャンルを問わず字幕付きの番組が増えている。字幕が表示されるコマーシャルもある。手話通訳についてはここでは触れないが、情報保障に関わる新しい技術も出てきている。

しかし字幕や手話通訳といった情報保障を拡充してスピードや精度を上げていけば、すべてが解決するのだろうか。

■パラリンピック開会式で気づいた別の課題

パラリンピックの開会式は少し冷静な気持ちで見ることができた。字幕の遅れを回避するために映像を遅らせる方法で、映像と字幕のタイムラグはかなり減っていた。その一方で手話通訳が映像に先行したり、早口に間に合わないこともあり、すべてをぴったり合わせるのは難しいのだなと観察していた。

しかし私が一番気になったのは実況アナウンスのスピードと量である。特に選手入場のシーンでは、国名や場所、旗手や代表的選手のフルネームや参加競技、パラリンピック参加に至った経緯やちょっとしたエピソードなどを、男女2人のアナウンサーが早口でどんどんしゃべる。時にはキャンプ地の町名のマチとチョウを読み間違えたと後から訂正が入り、「△△選手がいましたねぇ」などと画面に映る選手を紹介したり「鮮やかな衣装ですね」など感想も挟み込まれていた。

しゃべりすぎが気になったのは、視覚障害者向けの解説放送を聞いていたせいでもある。私は2ヵ国語放送を聞くためにいつも副音声に設定していて成り行きで解説を聞いたのだが、実況アナウンスの語りの合い間にまるで細い紙片をすべりこませるように視覚情報が追加されていくことに驚嘆した。

ユニフォームの色、宙に浮かんだ風船の色や形、車いすの車輪に描かれた模様など、次々に情報が補足されていたが、メインの実況が話しつづけるのでその息継ぎの間に解説を入れ込むような形になり、きわどいタイミングで音声が重なることもあって、十分な解説ができたのだろうかと心配になった。

■情報保障の向こう側への意識を

実況を担当するアナウンサーは情報保障についてどの程度意識していたのだろうか。話された言葉を字幕や手話に変換したり視覚情報を解説したりする時間やプロセス、情報保障を必要とする人たちやその言語環境について予備知識があれば、あそこまでハイスピードで話さなかったのではないか。

個人的には選手の事故・病気の詳しい状況を開会式で紹介する必要はないと感じたし、マチ・チョウの読み違い程度なら別途サイトで訂正すればいいと思った。ただ実況に何を求めるかにはいろいろな考えがあるのだろう。

実は普段の放送でも情報保障への無理解を感じることがある。

NHK朝のニュース終了間際の「朝ドラ送り」をご存知だろうか?キャスターが8時から放送される連続ドラマについてラスト15秒程度の短い秒数内に早口でしゃべり、番組終了とほぼ同時に語り終えて一同が笑いながら終わるのが恒例になっている。そこでのトークが連続ドラマの後の番組で「朝ドラ受け」として話題になることもある。

しかしこうした終了間際のトークにはほとんど字幕が付いていない。間に合わないとわかっているので最初から出てこないことが多いのだ。

■判断の機会を奪うのは親切ではなく傲慢

番組終了時のちょっとした雑談は「たいしたことじゃない」「伝えなくても問題ない」「なんでもない」から字幕は不要だと思っていないだろうか?

実はいま挙げたのはキコエナイ人たちが言われて大変不愉快に感じる言葉だという。たいしたことかどうか、伝える必要があるかどうかはキコエル人が決めてはいけない。キコエナイ人がきちんと情報を得たうえで「くだらない」「たいしたことない」「つまらない」と感じて笑ったり怒ったりするのが正解なのだ。

懺悔するが、キコエナイ妹の身近にいて子どもの頃から周囲の音や声を説明し仲介するのを自分の役割だと思ってきた私は、この不愉快な言葉をこれまでの人生で数えきれないほど言ってきた。

たとえば親戚の集まり――大勢のキコエル人が次々と妹に話しかけつつ返事をする前に別の話に移ってしまったり、身内をけなして相手を上げたりするややこしい社交上の会話が飛び交う場所は、キコエナイ妹だけでなくキコエル私にとってもうんざりする場所だった。

仲介しきれない・伝えられないストレスと義務感で疲弊し、つい「何でもない」「あとで」と言ってしまったのだ。もちろん子どもだった私がひとりで背負うべき責任ではないけれど、ごめんなさい。

キコエル人は聞いているから「たいしたことじゃない」と判断できるのであって、その判断する機会を奪うのは親切ではなく傲慢だということは肝に銘じておかなくてはいけない。勝手に字幕の要・不要を判断するのは同じことだと思う。

■しゃべりすぎの音声・にぎやかな画面は誰のため?

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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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キーワード: #ビジネスと人権

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