「午前0時過ぎ、7歳の私は姉と家を出た」(1/4)

一時保護所での生活

児童相談所では、施設が決まるまでの一時保護という形となり、併設される「一時保護所」という施設が仮住まいとなりました。そこから、私にとって状況を全然理解できないままに、大人に「言われた通りにやる」という生活が始まりました。

 学校にも施設の暮らしにもなれてきた頃

いま思い返してみると、私、当時の感情の記憶がまったくないんです。流されるまま、その場の状況を受け入れるしかない、みたいな感じで。

お父さんと離れて悲しい気持ちもなかったですし、わからないことも多すぎて、本当に「無」だったんだと思います。

一時保護所には、私がいた当時、男女合わせて十数人いたんじゃないかなと思います。部屋の真ん中にビニールテープみたいなもので境界線が作られていて、こっちは男子のゾーン、こっちは女子のゾーン、という風にそれぞれ生活する場所を分けて過ごしていました。ちょっとびっくりしますよね(笑)。

女の子は赤、男の子は青の上下揃いのジャージを着ていました。2歳から18歳までの子たちが対象なので、大きい子もいれば、ちっちゃい子もいて。一人だけ、なにを話したかは覚えていないんですけど、年上で可愛らしいお姉さんがいたのは覚えています。

どんなことをして過ごしていたか、細かいことは覚えていないんですが、そこにいる間はみんな学校に行けないので、基本はずっと施設にいます。小学生以上の子たちは、勉強の時間、運動の時間など日課が決まっていました。未就学のちっちゃい子たちは先生と本を読むなどしていたと思います。

勉強は基本、プリント学習です。運動の時間は朝にあって、施設内にあるグラウンドをみんなで走っていました。学年ごとに校庭の周回数が違うので、ペアになってお互いに数え合います。週に1回ぐらいは、「運動」という名目の自由時間があって、好きなことをして遊ぶことができたので、縄跳びとかしていたような気がします。一応、共有の本棚には漫画とかも置いてあって、お姉ちゃんは『あさりちゃん』という漫画を読んでいました。(歴史の長い一時保護所は厳しいルールがある印象が強いですが、一時保護所も待遇改善の流れがありますし、個々を大切にしてくれる所もあります)

感情の記憶がないので大人になったいまの想像になっちゃいますけど、この場所にいなきゃいけないというか、抗う気持ちもなかったと思います。行動の理由がわからなくても、みんながやっているからやる、という。

いつかは忘れちゃいましたけど、そういう生活をしばらく送っていたある日、私たちがのちに暮らすことになる世田谷区の児童養護施設の先生が2人、児童相談所にやってきました。

保護所内にある会議室みたいなところでお姉ちゃんと私とで面会をして、「あなたはこれからこういう場所に行くんだよ」みたいな説明をされたのを覚えています。

これは後になって聞いたことですが、「れいかさんはその時、児童相談所でめちゃくちゃ泣いて、部屋の隅っこに座って『行きたくない!』って言ってたんだよ」って児童養護施設の先生が教えてくれました。

ここが好きなわけじゃないけど、またどこか新しいところに行くのが不安、というような思いが心のどこかにあったのかな。

M.Ikeda

池田 真隆 (オルタナS編集長)

株式会社オルタナ取締役、オルタナS編集長 1989年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。 環境省「中小企業の環境経営のあり方検討会」委員、農林水産省「2027年国際園芸博覧会政府出展検討会」委員、「エコアクション21」オブザイヤー審査員、社会福祉HERO’S TOKYO 最終審査員、Jリーグ「シャレン!」審査委員など。

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