最近SNSやニュースでよく耳にするが、きちんと理解はしていない。そんな単語が増えてきてはいないだろうか。近年、ジェンダーをめぐる議論はさかんにおこなわれるようになってきた。しかし、前回の歴史篇でも書いたように、かけ離れた意味でのフェミニズムが乱用されることで多くの誤解をうみ、結果として対立を深める構造に陥っている側面もある。対立ではなく対話をするために、まずは正しくフェミニズムを理解することが重要なのではないだろうか。本稿ではフェミニズムを考えるうえで知っておきたい用語を紹介していく。なお、紹介する用語はいずれも定義が多様であり、ここで紹介するのはその一例であることを注記しておく。(伊藤 恵・サステナビリティ・プランナー)

男の絆か呪縛か「ホモソーシャル」とは

同性間の性愛関係「ホモセクシュアル」と区別されるように「同性間の非性的な関係」を示す用語として使われている。もともとは男女問わず同性同士の友人関係などを指すものと理解されてきたが、最近のジェンダー論の中ではおもに男性同士の結びつきを指すことが多い。

それ自体が悪い訳ではないのだが、ホモソーシャルの中で連帯を強めるために「異質なもの」つまり女性や「男らしさ」に欠ける男性がしばしば排除の対象にされることが、さまざまなジェンダーの問題の根底にある意識として近年問題視されている。

森喜朗氏の「女性は話が長い」という発言が女性蔑視だと批判を浴びたのは、まだ記憶に新しいだろう。このように社会進出していく女性を男性が批判する際に、からかったり揶揄したりするのも、同じ考え方を持つホモソーシャルの男性の目線を意識して行われるものだと考えられる。

自分たちとは異質な女性を共通の敵とみなし、叩くことで連帯を強める。そんな構造が垣間見られる。しかし一方で、ホモソーシャルは男性自身を苦しめている側面もある。

男性はホモソーシャルの中で、常に男らしくいることが求められ、それがいわゆる「有害な男らしさ」につながっていくことがある。

たとえば男たるもの仕事に励まなければ、弱音を吐くのは男らしくないという意識に縛られ、自分自身を追い込んでしまう。事実、過労死の男女比をみると男性の比率が圧倒的に多い。

「ミソジニー」は本当に女嫌いか

言葉の定義としては、「女性嫌悪」「女性蔑視」などと訳されたりする。しかし、この「女性嫌悪」の対象になる女性は本当に「すべての女性」なのだろうか。

近年起きている女性を無差別にターゲットにした暴力事件の動機として、「女性達が誰も振り向いてくれなかったから、無差別に狙った」という趣旨のものが多くみられる。

この場合、むしろ女性に対して魅力を感じているにもかかわらず、その想いが叶わなかったことが動機となっている。故に犯人はミソジニーではない。という主張がしばしば展開されるが、果たして本当にそうなのだろうか。

この疑問に対して「ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理」(ケイト・マン)では、家父長制との関係に注目している。その中でミソジニーとは、家父長制の秩序を支えるものとして論じられている。

同じ女性でも家父長制に従う、いわゆる「女性らしい」対象は称賛し、愛される存在となる。逆にその制度をおびやかすようないわゆる「わきまえない」女性は憎悪や排除の対象となり、罰が与えられる。

ミソジニーとは家父長制を維持するための選別的な監視システムと捉えると、先述した女性をターゲットにした犯罪も「家父長制の下で、本来与えられている権利を不当に奪われたことへの罰」として起こした事件と解釈でき、ミソジニーの典型として捉えることができる。

いままで社会に生きる中で、なんとなく感じてきた違和感。いままでは透明なものだったその違和感が言葉になることで、自分が感じてきたことが改めて自覚されると同時に社会の問題として可視化されていく。

近年うまれたり、改めて定義が捉え直されたりして注目されている言葉たちは、ジェンダー平等を願う人々にとって力を与える存在になってくれる。そう信じたい。