「水俣病の大なる原因は人を人としてあつかわなかったこと」-原田正純先生をしのぶ

あのころ、ハイハイしていた胎児性の子どもたちは50代になった。その一人、車いすの加賀田清子(56)さんは、原田先生の写真を携帯の待ち受け画面にし、回復を祈り続けていた。

お見舞に行くという人に、「先生の写真を勝手に使ったこと、あやまってきてほしい」と伝言をたのんだ。この話を聞いて原田先生は「今まで数年、泣いたことがなかったけど、清子さんがそこまで僕のことを思ってくれることがうれしくて、僕は泣いたよ」と感激したそうだ。

お菓子が入った人形をいくつもカバンにつめて水俣に診察に行ったこともあった。胎児性患者の永本賢二(52)さんは、原田先生から大きな人形をプレゼントされたことを覚えているという。

「子どものペースで診察をしてくれた。タイムスリップできるなら、僕が子どもだった時代にいって、また、先生に診てもらいたい」と話す。水俣病のような治らない病気に直面したとき、医者に何ができるのか。その答えを探し続ける姿に、患者さんはひきよせられた。

最後まで水俣病の被害者のことを考えていた。福岡高裁で争われた水俣病溝口訴訟では、原告の母の水俣病申請を熊本県が21年間放置した違法性と、母が水俣病であることを訴えていた。

2月に原告勝訴の判決が下され、喜んだのもつかの間、熊本県が上告したことで最高裁へ。80歳の原告は、再び法廷の場に引き戻されることになった。

法廷で証言をしてきた原田先生は、「この怒りがある限りそう簡単にくたばらないからね」といわれていた。亡くなる1週間前には、見舞いに訪れた弁護士に開口一番「溝口訴訟は大事なんだよ。蒲島県知事は上告を取り下げるべきだ」と話していたそうだ。

水俣病はなぜ、こうも解決が長引くのか。原田先生はある本にこう書いている。「水俣病の小なる原因は有機水銀であり、中なる原因はチッソが廃液をたれ流したことであり、大なる原因は人を人としてあつかわなかったことにある」と。

政府は水俣病の存在を認めた12年後に、原因はチッソにあると認めた。この間、工場排水は不知火海に流され被害は拡大した。人を人と思わないやりかた。責任逃れの連続が、水俣病の解決を今も遅らせている。

水俣をみていると社会のあり方がみえてくるという原田先生は晩年、熊本学園大学を拠点に「水俣学」を提唱していた。専門家と素人の壁、学問の分野の壁をとりのぞき、水俣病事件をとおして映し出される社会のありかたを考える試みだ。

私が原田先生に最後にお会いした1月の水俣病事件研究交流集会も、そうした場の一つなのだろう。これまで何度か顔をあわす機会はあったが、このとき初めて先生の著書にサインをお願いした。

挑発の書だという94年に書かれた『慢性水俣病・何が病像論なのか』に、再び原田先生の熱い想いが吹き込まれた気がしてならない。(オルタナ編集委員=奥田みのり)

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オルタナ編集部

サステナブル・ビジネス・マガジン「オルタナ」は2007年創刊。重点取材分野は、環境/CSR/サステナビリティ自然エネルギー/第一次産業/ソーシャルイノベーション/エシカル消費などです。サステナ経営検定やサステナビリティ部員塾も主宰しています。

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