■原田勝広の視点焦点
ペルーのアルベルト・フジモリ氏が9月11日に亡くなった。86歳だった。日系人としては初めての大統領であり、日本大使公邸人質事件では断固たる決意で人質の日本人を救出してくれた恩人として歴史に名を残すであろう。フジモリ氏の死を悼み、思い出とともにその人柄業績などを偲びたい。(オルタナ論説委員・原田勝広)
■大学学長から大統領に 貧困対策に力
中南米はどの国も貧富格差が烈しく、一部の白人少数エリートが国の政治・経済を牛耳っている。インカ帝国の末裔ケチャ族が暮らすペルーも例外ではない。寡頭政治の中で貧困層は打ち捨てられ、左翼ゲリラが国土の三分の一を支配するなど国は破綻寸前の状態だった。そこに登場したのが農業大学学長だったフジモリ氏だった。
1990年、大統領選で初当選すると、民営化や外国からの投資を呼び込み経済再生を強力に進めた。一方で貧困対策に力を入れ、地方の道路や橋などのインフラ、学校を積極的に建設した。国家再生のための基盤整備に動いたのである。
フジモリ氏は熊本県出身の日本人移民の子として首都リマで生まれた。父は仕立て屋として生計を立てていた。幼少期を過ごしたリマ市内の実家を訪ねたことがあるが、その質素さに驚いた記憶が残っている。それゆえかフジモリ大統領は一貫して貧しい人たちの味方であった。
苦労したのは山間部の左翼ゲリラ、センデロ・ルミノソ対策であった。ペルーを混乱と無秩序から救うにはゲリラの撲滅が不可欠だと信じて行ったが、住民の間に入り込んだゲリラの掃討は軍の協力を得て時に強引な手法を取らざるを得ず人権問題を引き起こした。
1996年12月に発生した日本大使公邸人質事件は、ある意味、フジモリ氏の政治手法を浮き彫りにしてくれたような気がする。
これは都市型の左翼ゲリラMRTA(トゥパク・アマル革命運動)が引き起こした前代未聞の人質事件で、日本経済新聞の元サンパウロ特派員だったことから、ペルー現地取材班の指揮をとることになった筆者は、身近でフジモリ氏に接する機会を得た。
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■日本大使公邸人質事件では秘密裏に地下トンネルを掘削
■軍特殊部隊使い人質71人解放
■晩年は人権侵害で服役も