記事のポイント
- 「世界一貧しい大統領」として知られたホセ・ムヒカ氏が2025年5月14日亡くなった
- オルタナは2016年3月、ムヒカ大統領(当時)のインタビュー記事を掲載した
- インタビューでは原発に依存する日本のエネルギー政策に疑問を投げかけた
「世界一貧しい大統領」として知られたホセ・ムヒカ氏が2025年5月14日亡くなった。オルタナは2016年3月、日本人記者による、ムヒカ大統領(当時)のインタビュー記事を掲載した。日本の原発や再エネについても言及したその内容とは。(オルタナ輪番編集長=池田真隆)

■ムヒカ氏にアポイントなしで会いに行った日本人
オルタナは2016年3月、ホセ・ムヒカ氏のインタビュー記事の要旨を掲載した。ムヒカ氏にインタビューしたのは、フリーライターの平井有太さん(49)。平井さんは、2015年11月、ムヒカ氏に取材するため日本からアポイントなしで会いに行った。
平井さんは2012年から2年半、地産地消を促す「ふくしまネット」の特任研究員として福島県福島市に住んでいた。放射能の影響で苦しむ生産者を間近に見てきて、福島の復興にはムヒカさんの言葉が必要だと考えた。
何のツテもなかったが、ウルグアイ大使館やムヒカ氏の秘書に手紙で思いを伝えた。なぜ日本から来たのか、何をムヒカ氏に聞きたいのか、思いを込めて手紙に書いた。
■「ムヒカ氏はマテ茶を飲みながら出迎えてくれた」
約1カ月ねばり続けた結果、ムヒカ氏の私邸に招かれた。帰国しようと決めていた日の3日前のことだ。夜に平井さんのもとへ1本の電話がかかってきた。
電話をかけてきたのは、ムヒカ氏のガードマン。「明日の朝なら家で休んでいるから会える。来てみろ」という内容だった。平井さんは繰り返し、私邸に通い続けていたため、ガードマンとも顔なじみになっていた。
次の日の朝、ムヒカ氏の私邸を訪ねると、ガードマンの小屋に通され、そこにムヒカ氏はいた。「マテ茶を飲みながら迎えてくれた」と話す。
インタビューの時間は1時間に及んだ。当初は30分を予定しており、取材の途中で、妻で上院議員(当時)のルシア・トポランスキー氏が「議会に行く時間よ」と止めに入ったが、「今、大切な話をしている。あとで行くから先に行っていてくれ」とスペイン語で返したという。
インタビューでは、福島県で起きた原発事故やエネルギー政策などについて聞いた。ウルグアイは欧州経済の低迷を利用し、自然エネルギーへの転換を実現した国だ。同国の電力の約9割はクリーンエネルギーでまかなっており、世界屈指のエネルギー先進国だ。
ムヒカ氏は、事故が起きるリスクがある原子力に頼ることへ疑問を投げかけた。「日本には優れた人材がいます。技術力もあり、経済力もあります。それなのに、いまだに原子力を取り入れたエネルギー政策を続け、代わりとなるエネルギーの開発に消極的な事実に驚かされます」と話した。
「ドイツは思い切った決断をしました。ましてや原爆投下を被り、広島と長崎の悲劇を経験した日本が、経済的な要素を重視し、国民の想いを考慮しないエネルギー政策を進めていることは、信じられないことです」と続けた。
■「足るを知る」ムヒカさんが残してくれたこと
平井さんは5月14日夜、オルタナ編集部にコメントを寄せた。インタビュー当時を振り返り、「ムヒカさんが残してくれたメッセージは『足るを知る』に尽きると捉えています」と話した。平井さんのコメントは下記の通り。
「私がムヒカさんに会った2015年、当時は何とかムヒカさんの言葉を届けたいと考え、3.11の傷がまだ癒えない福島に来ていただけないかと直接伺い、依頼するのが目的でした」
「 しかし今、悲しいかな、世界には気候危機、凄惨な戦争、差別に貧困と、ムヒカさんの言葉が必要な社会課題がそこら中に蔓延するようになってしまっています」
「でも、強いリーダーやその言葉を待つフェーズは終わっています。それだけでは足りないし、間に合わない。 自らそれぞれの場所で、できるかたちで各々の課題と対峙し、想いや考えからさらに一歩踏み込んで、実践をはじめなければなりません」
「私自身は、ムヒカさんが残してくれたメッセージは『足るを知る』に尽きると捉えています。それは私たち日本人がとっくに知っていたはずの価値観。できることは、すべての存在にとって必ずある。小さな一歩の積み重ねで、皆で新しくも普遍的な社会をつくりあげていきましょう。 ムヒカさん、ありがとうございました。ゆっくりお休みください」