「ゲバラの旅」の重さ:希代準郎

作家
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◆「ショート・ショート」(掌小説)こころざしの譜(31)

 古いビルが軒を連ねるオールドハバナの街を歩くとタイムスリップしたような錯覚に陥る。キューバ革命前のクラシックカーが通りを走っている。シボレー、ビュイックといったアメ車に混じってアストンマーチンも健在だ。博物館でしかお目にかかれない年代物が故障のたびにエンジンや部品を取り換えられ、はげた塗装をぬり直されながら生きながらえているである。
 ベランダからぶら下がる洗濯物を見上げ、サルサを踊る街角のセニョリータを冷やかしながら海岸沿いに出ると古本市に出くわした。「ゲバラ、没後五〇周年記念セール」と立て看板に大書してある。
 「航司、面白いもの見つけたわよ、来てぇ」連れの夏希が手招きしている。ベレー帽をかぶったチェ・ゲバラの肖像画が描かれた伝記地図帳だった。ブエノスアイレス大学医学部の学生だったゲバラが1951年末から相棒の医師とふたり、オートバイで南米旅行に出かけたが、そのツアーのルートをたどっている。
 「アルゼンチンからチリ、ペルー、ブラジル、ベネズエラと南米大陸を回ってキューバにたどり着いたのね」
 「へえ、それでカストロと一緒に米国の支配からキューバを解放する革命を成し遂げたってわけか」
 「格好いい。あんたとは大違いじゃない、航司」
 「チェ、うるせえな」
 「そのチェというあんたの口癖のおかげでウチらここまで来たんだよね」

 ひょんな出会いだった。渋谷・道玄坂のスナックの前でやせた女がヤクザ風の男に絡まれていた。それがフラメンコ・ダンサーの夏希だった。航司はおせっかいにも声をかけた。「お前には関係ねえ」。いきなり男はナイフで切り付けてきた。思わず、パンチが出た。気が付いたら、相手は頭から血を流して倒れていた。航司はあせった。執行猶予中の身だったからだ。「チェ、やべえ。逃げろ」。女はついてきた。細い腕に注射痕が見えた。海外に高飛びしようかと思いつきを口にした時、女が言った。「そのチェのキューバへ行こうよ」。キューバなら会いたい男が一人いる。有り金をバッグに詰め込んだ。

 夏希はホテルに帰って、ゲバラの地図帳を眺めている。
 「ねえ、航司、これからどうすんのよ」
 「さあな、こう暑くちゃ、考えるのも億劫だな」
 アマチュアのボクサー時代に打ち合ったことのあるリカルドは母国のキューバでは、「老人と海」のグレゴリオ爺さんと並ぶ有名人だった。金メダリストだから当たり前かもしれないが、彼の消息を知る者はいなかった。
 「だったら、ゲバラのオートバイ・ツアーを逆回りで旅しない?」
 どうしてそんな気になったのか、今となっては不思議だが、真っ赤なキャデラック・エルドラドのポンコツを即金で買った。パンアメリカン・ハイウェイはひどい悪路で日差しが強かった。目に映る掘っ建て小屋の暮らしは貧しかった。これがゲバラの見た風景か。航司は幼いころを過ごした筑豊の炭鉱住宅を思った。
 ゲバラはペルー側からアマゾンに分け入っている。航司と夏希はパナマからベネズエラを経由してブラジルへ入り、アマゾン川の河口の街、ベレンに着いた。夏希が例の本を開く。アマゾン川上流のハンセン病療養所でゲバラは「規則だから手袋を」と言われたのを「無意味だよ」と断った。素手で握手を求めるゲバラに患者は驚き、すぐニコニコ顔に変わった、と説明にある。
 「ハンセン病ってさ、業病というんで世界中で嫌われていたんだけど、感染力はめちゃ弱いらしい。ゲバラは医者だからわかってたのかもな」。航司が訳知り顔で言った。
 アマゾンのホテルのレストランで日本人の女を見かけた。ハンセン病療養所へ行くつもりだと話すと、最近閉鎖になったと教えてくれた。彼女は看護師で、長くその療養所で働いていたのだという。
 「私の母は女医でしたが、日本で山奥のハンセン病患者を探して回った。献身的に働き、白衣の天使と持ち上がられたのに、後になって、あれは患者狩りだ、役所主導の強制収容策に加担したと批判されたの」
 「それで、こんなところまで」。夏希が口をはさんだ。
 「ええ、日本に居づらくなって母とふたりで移住したんですの。ゲバラがハンセン病の医師を志していたことは、こちらで知りました」
 「結局、お母さんは国策に振り回されたということですか」
 航司の問いかけに老女は答えず、無言のまま遠くを見やった。
 「母は百歳近いんですが健在です。近くのトメアスという日本人移住地に住んでいるの。会う?」
 トメアスは暑かった。
 「日本人移民は大失敗だったんだけど、コショウに救われたわ。シンガポールから移民会社の人が持ち込んだたった一本のコショウの苗が奇跡的に根づいたの。その人、誰だと思います」
 「有名な人なんですか」。夏希の質問に女が答える。
 「女優の小山明子さんのお父さんなの」
 その時、ドアがきしみ母親が姿を見せた。顔や手のシワに苦労が深く刻まれている。
 「移民は棄民ですのよ。国に捨てられた方たち。かわいそうですけれど、その運命と戦った勇気ある戦士でもありますわね。まあ、チェ・ゲバラですって? 彼は、革命直後の1959年7月、広島へ来たことがありますわ。ご存知? そして、こう言ったの。君たち日本人はアメリカにこんなひどい目にあわされて怒らないのかってね。ハンセン病はうつらないことを知っていた彼が、日本の強制隔離政策を知ったら何て言ったかしらね」
 「もういいのよ、お母さん。む、か、し、の話」
 夏希が、突然、あらっ、と声をあげた。「メールが届いたわ、リカルドから。えっ、ブラジルに住んでいるんだって」。
 「まさか。この近くか」。航司が興奮して叫んだ。
 「リオデジャネイロだって」
 にこやかな老いた母と娘。ブラジルは包容力がある。ここならふたりで暮らしていけるかもしれない。航司はすっかり日焼けした夏希の横顔を静かに見つめた。(完)

作家
日常に潜む闇と、そこに開ける不安と共感の異境の世界を独自の文体で表現しているショートショートの新たな 担い手。この短編小説の連載では特にNPOという新たな動きに注目、そこに関わる群像を通して、生きる意味、生と死を考える。

2019年7月4日(木)10:00

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